第61話 風の宿り木、静かな再会
旅を続けるカイとハルは、古い森の奥に“風が宿る木”があると聞く。
そこには、忘れたはずの声が眠っているという――二人は静かにその森へ向かった。
朝の街を発って三日目のことだった。
カイとハルは丘を越え、小川を渡り、光の道を進んでいた。
季節はゆっくりと変わり始めており、風には初夏の匂いが混ざっていた。
鳥は新しい巣を作り、道端には名も知らぬ草花が揺れる。
「カイさん、あの話……本当だと思いますか?」
ハルが振り返る。
「“声が宿る木”ってやつか?」
「はい。あのパン屋のおばあさんが言ってたじゃないですか」
カイは微笑みながら頷いた。
――風の宿り木。
その木に触れると、忘れた声や閉じ込めた想いが風となって囁き返ってくる。
カイは、あの日の手紙を思い出していた。
ユウに向けた言葉。
ハルが受け取った願い。
「本当かどうかはわからない。でも……聞いてみたい気はするよ」
「僕もです!」
ハルは満面の笑みを見せる。
二人は道を進む。
やがて、森の入口に立った。
木々は背が高く、葉が生い茂っているのに、森の中はなぜか明るかった。
風が枝に触れるたび、澄んだ音が響く。
まるで、森全体がひとつの大きな楽器のようだった。
「ここ、すごい……」
ハルが息を呑む。
カイは静かに歩き出し、奥へ進む。
風の宿り木は、この森の最も深いところに立っているという。
しばらく歩くと、開けた場所に出た。
そこには一本の大樹があった。
幹は白く、枝は青い光を帯び、葉は風に触れるたび淡い音を鳴らす。
木の根元には、小さな石碑があった。
《この木に触れた者は、風の記憶に出会う》
ハルが木に近づこうとして、ふと振り返った。
「カイさん……先に触ってみてもいいですか?」
「もちろん」
ハルはそっと木の幹に手を置いた。
風がふわりと吹き、光が木の枝から降り注いだ。
次の瞬間、森の音が変わる。
風の囁きが“声”になったのだ。
――だいじょうぶだよ
――歩いていくんだよ、ハル
少年は目を見開いた。
「……これは……僕のお母さんの声だ」
ハルの小さな背中が震えた。
カイは静かに見守る。
ハルの母はずっと前に亡くなっていた。
彼が曖昧に覚えている笑顔は、いつも夕陽の中でぼんやりしていた。
「……お母さん」
ハルが木の幹に額を寄せる。
その姿は痛々しいほどいじらしく、そして美しかった。
声は続く。
――泣くな
――あなたはもう、強くなった
――風があなたを見ているよ
ハルはしばらく木に触れ、やがて大きく深呼吸した。
涙を拭き、カイのほうを振り返る。
「カイさんも……どうぞ」
「……ああ」
カイはゆっくりと宿り木に触れた。
木はあたたかかった。
指先から、胸の奥まで透明な光が流れ込む。
風が吹いた。
森が静まり返る。
そして――
――カイ
その声は、まちがえようがなかった。
ユウの声だった。
――聞こえるか
――お前、ちゃんと生きてるな
胸が熱くなる。
何度夢見たかわからない声。
何度忘れようとしても忘れられなかった声。
「……ユウ……」
カイは木に額を寄せた。
――返事しなくていい
――風は全部、受け取ってる
木の葉が揺れる。
森が呼吸しているようだった。
――カイ
――お前が歩く世界は
――もう、夜じゃない
カイは目を閉じ、深く息を吸った。
胸の奥で、何かがゆっくりとかたちになる。
――ありがとう
――ずっと見てる
風が吹く。
森の光が揺れる。
カイは目を開き、木から手を離した。
頬には涙があった。
だが、それは悲しみではなかった。
ハルが小さく呟いた。
「……ユウさん、ですか?」
カイは静かに頷いた。
「うん。
――風になっても、まだ僕を見てくれてる」
二人の間に、透明な風が通り抜けた。
風の宿り木の枝が揺れ、光が降る。
森は静かだった。
けれどその静けさは、孤独ではなかった。
森の奥に微かな列車の汽笛が響いた気がした。
カイの胸の時計がひとつ、小さな音を刻む。
トクン――。
「行こう、ハル」
カイは微笑んだ。
「風は、まだ先を示してくれてる」
「はい!」
ハルも笑う。
二人は宿り木に背を向けて歩き出した。
光の道の先で、風が二人の影をそっと押していく。
風の宿り木は、二人に“忘れない声”を返した。
カイもハルも、再び胸に灯を得て歩き出す。
風は彼らの旅路を、静かに祝福していた。




