第6話 忘れられた橋にて
未練が丘で“幼い自分”と向き合い、ぼくの胸の重さは少しだけ軽くなった。列車に戻ると、静かな灯りが次の目的地「忘れられた橋」を照らし始めていた。
未練が丘をあとにしたぼくは、ゆっくりと列車へ戻った。
車掌は扉のところで待っており、ぼくの顔を見ると静かに頭を下げた。
「お帰りなさいませ、流星様」
「……ただいま、って言うのも変ですけど」
「旅の途中の“帰る場所”があってもよろしいのです」
車掌の言葉は、まるでこの列車そのものが“ぼくの居場所でもいい”と言っているようで、胸の奥が少し温かくなる。
列車に乗り込むと、ゆっくりと動き出した。
木製の床がほんのわずかに軋み、窓の外では光の粒がまたゆるりと流れ始める。
「次の駅は“忘れられた橋”でございます」
「忘れられた……橋?」
「ええ。そこでは“触れたかったのに触れられなかった記憶”が姿を現します」
触れられなかった記憶──。
その言葉に胸が少しざわつく。
「橋、なんですよね?」
「はい。橋は“渡りそこねた思い”を象徴しております」
ぼくは窓の外に目を向ける。
光の粒が消え、代わりに灰色の空が広がっていた。
雲は止まったまま動かない。風の気配もない。
静止した世界に列車が滑り込む。
車掌がゆっくりと続ける。
「流星様の祈りには、ハル様への思いのほかに、まだもうひとつの“未踏の橋”がございます」
「……未踏の橋?」
「ええ。渡ろうとして、渡れなかった橋。触れようとして、触れられなかった心。それらは“忘れられた橋”で姿を見せるでしょう」
列車が速度を落としはじめた。
窓の外に、古い橋が姿を現す。
白黒写真の中だけに残っているような、古い木造の橋。
両端の手すりは色あせ、ところどころ欠けている。
川は流れていない。
ただ深い霧が底に溜まり、川の代わりに記憶の空洞が広がっているようだった。
「まもなく……忘れられた橋です」
車掌が扉へ向かい、軽くランタンを振る。
扉が開くと、冷たい空気が足元をくぐり抜けていった。
「どうぞ……お気をつけて」
ぼくはうなずき、橋へ向かって歩きはじめた。
橋の入口に立つと、木材がかすかにきしむ音がした。
風は吹いていないのに、橋の表面が震えているように見える。
足を一歩踏み出すと、木の板が小さく沈んだ。
そこには誰もいない──はずだった。
けれど、橋の中央付近。
誰かが欄干にもたれかかるように立っている。
長い肩。
細い背中。
高校の制服のような影。
ぼくの心臓が跳ねた。
「……嘘だろ」
その影は、ぼくが見たくなくてずっと避けていた“記憶の誰か”だった。
ハルではない。
幼い自分でもない。
あれは──
「……兄さん……?」
橋の中央に立っていたのは、
数年前、突然家を離れたまま戻らなかった、兄の影だった。
ぼくと兄は3歳離れていた。
兄は明るくて、まっすぐで、ぼくから見れば“弱さのない人”だった。
けれど、兄は突然家を出て、そのまま足取りを絶った。
家族は言葉を濁した。
ぼくは幼くて何も聞けなかった。
兄は“忘れなければいけない誰か”になってしまった。
「なんで……ここに?」
橋の中央の影はゆっくりとこちらを向いた。
輪郭が少し揺れている。
顔は霧の中にほんのり浮かぶだけ。
けれど、確かに兄の面影だ。
「流星」
呼ばれた名前が、橋の上で静かに響いた。
「おまえ……どうして」
「渡ってこいよ」
兄の影は手を差し出す。
その手は、風がないのに揺れていた。
木の橋がきしむ音が、ぼくの鼓動と一緒に震える。
「渡らないと……わからないことがあるから」
兄の声は懐かしくて、
けれど同時に胸に痛みを広げた。
「渡れなかったのは、おまえだろ」
ぼくは言い返した。
橋の上の空気が、一瞬止まったようだった。
「兄さんが……勝手にどっか行ったんだ。置いていったんだよ。ぼくのことなんて……」
声が震えた。
「考えてなかったんだろ……!」
兄の影は少しだけ悲しそうに揺れた。
影なのに、まるで本当の人みたいに。
「ごめんな」
静かに言った。
「……ごめん?」
「置いていったこと、謝りたかったんだよ」
その瞬間、橋の下の霧がざわざわと揺れた。
「あの日、家を出るとき、おまえのことを思い出した。
でも……帰る方法がわからなくなった」
兄の影が手を伸ばす。
「渡ってこい。まだ話せることがある」
ぼくは息を呑んだ。
渡るべきか、渡らないべきか。
橋のきしむ音が、ぼくの足をためらわせる。
けれど、兄の影の声がもう一度響いた。
「流星。
……おまえに“残したまま”の言葉がある」
その声を聞いた瞬間、
ぼくは足を前へ踏み出していた。
忘れられた橋に現れた兄の影は、流星が長く封じてきた痛みの象徴。次回は兄の影との対話、そして橋を渡る意味が明らかになります。続きもどうぞ。




