第55話 光の谷、眠らない祈り
カイとハルが辿りついたのは、夜明けの光が絶えず降りそそぐ谷。
そこには“祈りを眠らせない場所”があった。
二人の旅は、再び問いを投げかけられる。
谷へと続く道は、街から離れるほどに静けさを増した。
風はやわらかく、光は白く、草木は金色に震えている。
ハルはカイの横を歩きながら、時折空を見上げていた。
空には、細い白い筋があった。
それは雲ではなく――かすかに光るレールの残像だ。
「列車が通った跡かな?」
ハルが尋ねると、カイは少し考えてから頷いた。
「たぶん、誰かの心が旅をしたんだ。
この世界では、人の祈りが線路になるらしいから」
ハルは感嘆したように目を丸くした。
「じゃあ、あれは……誰かが“誰かを想った跡”なんですね」
「きっとね。誰かを想う、その強さが空に残ったんだ」
二人は谷の入口に近づいた。
そこには古い門が立っている。
門の上には、錆びかけた鉄のプレートが打ちつけられていた。
――《光の谷:祈りは眠らない》
ハルはその文字を指でなぞった。
「眠らない祈り……って、どういう意味だろう」
カイは門の向こうに続く光の道を見つめながら答えた。
「――想いには終わりがないってことじゃないかな。
一度生まれた願いは、どこかでずっと光ってる」
谷に足を踏み入れると、そこは昼なのか夜なのかわからない光に満ちていた。
白い花々が川のように揺れ、風に吹かれるたび淡い光が舞い上がる。
その光はときおり、誰かの声に似た響きを持っていた。
どこか哀しく、どこか懐かしい。
「ねぇ、カイ」
ハルが立ち止まった。
「あそこ……誰か、いるよ」
谷の中央に、古びた祈祷台のような石造りの台座があった。
その前に、人影がひとつ立っている。
背は低く、薄い青色のマントを羽織っている。
ゆっくりと振り返ったその人物は――
「……君、は」
カイは息を呑んだ。
そこに立っていたのは、見覚えのある少女。
かつて列車で出会った“渡し守”の少女だった。
「おふたりを、待っていました」
少女は静かに微笑んだ。
「光の谷は、祈りが目覚める場所。
あなたたちがここに来ることは、ずっと前から決まっていたのです」
ハルが不思議そうに首を傾げた。
「僕たちが?」
「ええ。特にあなた、ハル。
あなたの祈りはまだ途中のまま。
だから、この谷が呼んだのです」
ハルは驚いて、自分の胸に手を当てた。
「祈り……僕の?」
少女は頷いた。
「あなたは誰かを失ってはいない。
けれど、誰かを“求めている”のでしょう?」
ハルの瞳が揺れた。
彼は視線を落とし、しばらく沈黙した。
「……僕、実は記憶が曖昧なんです」
カイは目を見開いた。
「記憶?」
「はい。
朝の街に着いたときには……僕、自分がどこから来たのか忘れてて。
名前も、風が教えてくれたんです。
“ハル”って」
少女はそっとハルの肩に手を置いた。
「あなたは“誰かの祈り”から生まれた存在なのですよ」
谷を渡る風が強くなり、光が舞い上がった。
ハルの身体がその光に包まれる。
カイは思わず手を伸ばした。
「ハル!」
「大丈夫」少女は静かに言った。
「消えるわけではありません。
ただ、本当の自分を思い出すだけです」
光の中で、ハルの表情が変わった。
驚き、戸惑い、そして――涙。
「……思い出した。
僕、君の手紙を受け取ったとき、胸が苦しくなったのは……
誰かと“お別れした記憶”があったからなんだ」
カイは息を呑んだ。
「君も、誰かを……?」
ハルは頷いた。
「名前はもう思い出せないけど……
僕にも、大切な誰かがいた。
その人に言えなかった言葉があった」
少女は石台を指差した。
「ここに祈りを置きなさい。
眠らない祈りは、必ず届きます」
ハルは石台の前に進み、両手を胸の前で合わせた。
風が吹き、草木が揺れ、光が舞い上がる。
その光の渦の中で、ハルはゆっくりと目を閉じた。
「ありがとう……僕を残してくれて。
僕は、もうひとりじゃないよ」
祈りが終わると、光が穏やかに消えた。
ハルは涙を拭い、カイの方へ振り返った。
「カイ……僕、やっと自分が“生きている”って分かったよ」
カイは微笑んだ。
「僕もだよ。
祈りって……こんなにも強いんだね」
少女は二人の前に立ち、深く頷いた。
「祈りは眠りません。
それは夜を越え、朝を照らし、また誰かの旅を導くのです」
谷の風が二人の周りを巡り、光がそっと寄り添う。
その瞬間、カイは確かに感じた。
――この旅はまだ終わらない。
ハルがいる。
自分がいる。
そして“祈り”が生きている限り、どこまでも続いていく。
「さあ、行きましょう」少女が言った。
「光の谷を越えた者には、新しい道が開けます」
カイとハルは並んで歩き出した。
背後で、祈りの光がいつまでも揺れていた。
光の谷で、ハルの“失われた祈り”が目覚めた。
カイもまた、祈りが誰かを生かし続ける力を知る。
旅路は、二人の心を照らす新たな光へと向かっていく。




