第5話 丘に座るもうひとつの影
未練が丘の頂にいた影は、ハルではなかった。霧町とは異なる、もっと内側の痛みを映す存在。その正体に気づいたとき、ぼくの心は静かに揺れ始めた。
未練が丘の斜面を登るにつれ、空気がゆっくり濃くなるようだった。
霧町の湿った冷たさとは違い、この丘には乾いた空気が漂っている。草の匂いはあるのに、風が吹いていない。その静けさが、ぼくの心の奥をくすぐるようにざわざわと震わせた。
頂上に置かれた小さなベンチに座る影は、ぼくが近づくほど輪郭をはっきりさせていく。霧町の影よりもずっと人に近い形をしていた。肩幅も姿勢も、ぼくが知っている“誰か”に似ている気がして、それが胸を不安に締めつけた。
あと数歩で、影の表情さえ見える距離に立てる。
「……どうして」
思わず声が漏れた。
影はゆっくりと顔を上げる。
その瞳の形。眉の動き。輪郭の角度。
それは──
「……ぼく?」
影は、ぼく自身だった。
少し幼い。
だけど確かに、自分の顔。
自分の背中の縮こまり方。
自分の孤独のにおい。
胸の奥に重い何かが落ちる。
影の少年──“もうひとつのぼく”は、ゆっくりと瞼を震わせた。
「りゅうせい」
かすれた声が、風のない丘の上で静かに沈むように響いた。
その声は、ぼくの声のようであり、ぼくの知らない誰かの声のようでもあった。
「なんで……ここに」
問いかけると、影のぼくは少しだけ視線を伏せた。
まるで叱られた子供のように。
「置いていったから」
「置いていった……?」
「うん。きみが、置いていったんだよ」
ぼくは息を呑んだ。
影のぼくは、幼い頃のぼくだった──。
誰にも話せなかったことを抱え、痛みを抱え、それでも笑おうとしていた、あの頃の自分。
「……小学校のときの、ぼく……?」
影は小さく頷いた。
「ハルと出会う前の、きみ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがきしむ音がした。
ハルがいた数年間。
その前にも、長い時間があった。
ぼくはそれを“過去”と一度の言葉で片づけていた。
けれど、その過去の中に、まだ解けていない思いがあったのだ。
「ねえ、りゅうせい」
幼いぼくは少し微笑んだ。
その笑顔は弱く、どこかで崩れそうだった。
「ぼく、ずっと言えなかったことがあるんだ」
「……なに?」
「きみは、だれにも頼らなかった」
言葉が胸に刺さる。
丘の上の空気が、ひときわ重くなる。
「だれにも言わずに、一人で泣いてた」
「……やめろ」
思わず言った。
だが影のぼくは続ける。
「たすけて、って言えばよかったのに」
心臓が殴られたように痛んだ。
小学校の頃のこと。
誰にも言えなかった、あの孤独。
あのとき、ぼくは確かに“たすけて”と言えなかった。
「きみは、ぼくをずっと置いてったんだよ」
影の言葉は鋭いわけではなく、淡々としていた。
それが余計に胸を締めつけた。
「でも、ハルが来てくれた。だから、ぼくは必要なくなった」
「……違う」
「違う?」
「おまえは……おまえはずっと、ぼくの一部だよ」
影のぼくは少しだけ目を見開いた。
風はないのに、髪が揺れたように見えた。
「ぼくは、忘れてなかった。ただ……」
「ただ?」
「向き合うのが怖かったんだよ」
影のぼくは静かに座り直した。
そして、ぼくの右隣をぽんと叩いた。
まるで「座って」と言うように。
ぼくはゆっくりと影の隣に腰を下ろした。
自分自身の影と並んで座るなんて、想像したこともなかった。
「ねえ、りゅうせい」
「ん?」
「ぼくは、まだきみの中にいるよ」
影の言葉は、幼さを含んでいるのに、不思議と深く響いた。
「だからさ……そんなに、自分を責めないでよ」
胸が熱くなる。
言葉にすると崩れそうで、ぼくは拳をぎゅっと握った。
「……ごめん。置いてって、ごめん」
「うん」
影のぼくは、小さく頷いた。
その表情は、初めて“本当の笑顔”に近づいたように見えた。
「ゆるすよ。だって、きみだもん」
その瞬間、未練が丘に淡い風が吹いた。
風が吹いたのに、草は揺れなかった。
代わりに、影のぼくがゆっくりと光に溶けるように揺らぎ始めた。
「……ありがとう」
「こっちこそ」
影の輪郭が薄くなり、やがて草の色と同化していく。
最後に残ったのは、ぼくと同じ形の、小さな微笑みだけだった。
それも、すぐに消えた。
丘に残ったのは、ベンチと、淡い風の余韻だけだった。
「……行こう」
ぼくは立ち上がり、列車のほうへ歩きだした。
胸の奥にあった重さが、すこしだけ軽くなっているのを感じながら。
未練が丘の“もうひとりのぼく”は、流星の幼い頃の孤独そのもの。次回は列車に戻り、次の駅「忘れられた橋」へ向かいます。祈りの旅はさらに深く続きます。




