第4話 未練が丘へ向かう道
霧町で聞いた“ありがと”の声は、ぼくの心に小さな灯りをともした。列車へ戻ると、車窓の外には次の駅「未練が丘」へ続く、揺らぐ鉄路が伸びていた。
霧町の薄れゆく景色を背に、ぼくは車掌のあとを追って列車へ戻った。
扉が静かに閉まると、さっきまで霧の冷気に支配されていた世界が一変し、わずかに温かい空気が肺に染みこんでくる。
「お戻りなさいませ、流星様」
車掌は軽く一礼し、ランタンを胸元に戻した。淡い灯りが揺れ、木製の床をやさしく照らす。
「霧町はいかがでしたか?」
「……あれは、本当に……ハル、だったんでしょうか」
車掌はすぐには答えなかった。
薄い霧の粒がまだぼくの靴に付いていて、床に落ちるたびに小さく散っていた。
「影は“その人そのもの”ではございません。ただ、祈りの深さに応じて、形を近づけることがあります」
「近づける……」
「言葉の断片が聞こえたのは、あなたの祈りが届き始めている証でございます」
届き始める──。
それは、ぼくがずっと求めていた言葉だった。
ハルの最後の表情、声にならなかった言葉の意味。
答えを探すための旅が、ゆっくりと動き出している。
列車は再び走り始めた。
床下からかすかな振動が伝わり、ぼくは窓の外を見た。
外の景色は相変わらず“世界の外側”だった。
黒い空間に光の粒が浮かび、ゆっくり沈んだり昇ったりしている。
不規則に瞬く小さな光が流れるたび、記憶の欠片のように胸がざわつく。
「次の駅は……“未練が丘”と書いてありましたよね」
「ええ」
車掌は路線図を示す。
木製の額縁に入った地図には、不思議な名前の駅がいくつも列んでいる。
霧町
未練が丘
忘れられた橋
白紙通り
風灯台前
そして終点──眠り町
「未練が丘は、比較的ゆるやかな試練の地でございます」
「ゆるやか……?」
「しかし“歩くには、少し痛む丘”でもございます」
車掌は静かに続ける。
「そこで見えるのは“まだ結べなかった思い”。霧町の影よりも、よりあなた自身の内側に近いものが映ります」
ハルを失った後、ぼくの心に広がった空洞。
彼に言えなかったこと、届かなかったこと。
その周りに生まれた形のない痛み。
その痛みの正体に、少しずつ近づいているのだろうか。
「未練って……ぼくにもあるんですか?」
問うと、車掌はほんのわずか、微笑んだように見えた。
「未練のない方などおりません。人は皆、どこかで誰かに残された言葉を、胸に抱えております」
言われた瞬間、ぼくははっとした。
ハルだけじゃなかった。
ぼくは、ぼく自身に対しても未練を抱えていた。
あのとき、もっと強い言葉を言えていたら。
逃げずに、しっかり向き合えていたら。
病室を出たあとも、もっと──。
考え始めると、胸が締めつけられた。
車掌はそんなぼくの表情を読んだのか、静かに言った。
「未練は、責めるためのものではなく、気づくためのものです」
「気づく……?」
「ええ。あなたが何を大切にしたかったのか。何を守ろうとしていたのか。そして、何に触れたかったのか」
その言葉が、不思議と胸に落ちた。
列車はゆっくりと速度を落とし始めた。
窓の外の光の粒が消え、代わりに淡い夕暮れのような色が広がる。
不自然なほど静かな丘陵地帯が、ゆっくりと姿を現す。
金色とも灰色ともつかない、薄い草の絨毯が広がっていた。
風が吹いているように見えるのに、草は揺れない。
丘の上には小さなベンチがひとつ置かれ、誰かが残した影が薄く座っているように見えた。
「未練が丘……到着いたしました」
車掌が扉へ手を伸ばし、軽く指先で触れる。
扉が静かに開き、夕暮れのような淡い光が車内に流れ込んできた。
「ここでは、流星様の“もうひとつの願い”が姿を現します」
「もうひとつ……?」
「ええ。霧町では“届かなかった言葉”の影が現れました。未練が丘では、“届かせたかった想い”が浮かび上がります」
ぼくは扉の外を見つめた。
丘の頂にあるベンチ。
そこに座る薄い影。
霧町よりもはっきりと近く、人の形に近い。
胸が、強く脈打った。
「……行ってきます」
車掌は静かに頭を下げた。
「どうか、足元にお気をつけて」
ぼくは列車を降り、未練が丘のなだらかな斜面を歩き始めた。
足を踏み出すたび、草の匂いも土の感触も、わずかに胸へしみこんでくるようだった。
頂上のベンチには──
ぼくがずっと避け続けてきた“もうひとつの後悔”が、影として座っていた。
それは、ハルではなかった。
忘れたはずの、別の誰か。
ぼくがずっと心の奥に押し込めていた影。
胸がざわつき、ぼくは思わずつぶやく。
「……どうして、おまえが……ここに」
影は、静かに顔を上げた。
その瞳の形は、あの日の自分のように揺れていた。
未練が丘では、ハルとは別の“もうひとつの影”が姿を現します。次回はこの影の正体と、流星が抱えていたもうひとつの後悔を描いていきます。続きもどうぞ。




