第31話 星渡りの小舟、夜明け前の祈り
旅路の途中、カイとハルは“星渡りの小舟”と呼ばれる湖にたどり着く。
そこは願いが最も澄む時――夜明け前の祈りが世界を結ぶ場所だった。
風の音が穏やかな歌のように聞こえていた。
街道を離れ、森を抜けると、その先には広大な湖が広がっていた。
湖面は月光を映し、まるで星空がひとつ落ちてきたかのように輝いていた。
「わぁ……」
ハルが思わず声を漏らした。
湖岸に並べられた小舟はどれも白く、舟底が淡く光を放っている。
その光は波に揺れ、静かにきらめいては消えていった。
「ここが、“星渡りの湖”……」
カイは湖に近づき、水面に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、冷たさよりも先に、胸の奥に柔らかな震えが走る。
まるで湖そのものが、ゆっくりと心に呼びかけているようだった。
湖のほとりには老人がひとり座り、小舟を磨いていた。
帽子を深くかぶっているが、その声音は柔らかく、どこか懐かしい。
「旅の者かね」
「はい」とカイが答えると、老人は微笑んだ。
「この湖は“願いを渡す場所”。夜明け前に小舟を浮かべれば、
心に残る想いが風に乗って、向こう岸へ届く」
「向こう岸……?」
ハルが聞き返すと、老人はゆっくり指さした。
湖の先には薄い霧がかかり、その奥が見えない。
だが、霧の向こうに何かが確かに存在している気配だけがあった。
それは“あの世”とも“未来”とも、“心の奥底”ともつかない場所――。
老人は言った。
「ここを訪れる者はみな、何かを伝えたいんだよ。
過去の誰かへ、未来の誰かへ、あるいは今の自分へとな」
カイは胸の奥に手を当てる。
そこには懐中時計があり、静かな音を刻んでいる。
――ユウに手紙を送った日のこと。
風が運び、ハルへ届いた“あの想い”。
その先にまだ、伝えるべき言葉があると感じていた。
「カイ」
ハルが隣に立った。
「僕も、伝えたい人がいるんだ。
誰かはよくわからないけど……心の奥に灯りみたいなものがある」
カイは微笑んだ。
「じゃあ、一緒に渡そう。湖に、小舟に」
小舟には白い紙と筆が置かれていた。
湖を訪れた者が、それぞれの思いを綴るためのものだ。
カイは筆を取り、静かに目を閉じた。
――ユウ。
君に伝えることは、もう悲しみじゃない。
今の僕の“歩み”そのものだ。
君と歩いた時間が、ハルやこの旅を照らしてくれている。
文字にすると、不思議と息が軽くなる。
胸を締めつけていた何かが少しずつ形を変え、
やがて温かな光となって広がっていく。
ハルも紙に向かっていた。
顔が赤く、筆が震えている。
「……なんて書けばいいのか、まだ分かんないや」
「いいんだよ。言葉が浮かばなくても。
それでも、心は届く。ユウが教えてくれたんだ」
ハルはゆっくり頷き、小さな文字を残した。
――“ありがとう”
それだけだったが、その言葉は夜の湖よりも深く、静かに響いた。
老人が二人の舟を湖へ押し出した。
「さあ、願いを渡しなさい。夜明け前の風が、全部運んでいく」
小舟はゆっくりと進み始めた。
湖面に映る星々を踏みしめるように、光を揺らしながら。
カイとハルは肩を並べ、夜の湖を見つめた。
小舟が霧の中へ消える直前、
ふとカイは耳元で声を聞いた。
――「ありがとう、カイ」
それはユウの声だった。
涙は出なかったが、胸が温かく満たされた。
隣でハルも驚いた表情で湖を見つめている。
どうやら、彼にも何か届いたようだった。
やがて、湖の向こうで光が生まれた。
夜明け前の一筋の光。
その光の中で、小舟がゆっくりと消えていく。
カイはそっと呟いた。
「行ってきてくれ。僕たちの想いを、あの向こうへ」
風が湖面を渡り、
星々が揺れ、
空の端が白んでいく。
――願いは渡った。
この旅の続きも、きっと彼らを導くだろう。
星渡りの湖に小舟を浮かべた夜。
カイとハルの想いは風に乗り、夜明けへと溶けていった。
旅は続く――光の向こうに、新しい道が待っている。




