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夜の川原に降りてくる列車  作者: たむ


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第3話 霧町の影と、届かなかった声

霧町に降り立とうとした瞬間、ぼくを呼んだ声は確かにハルのものだった。霧に包まれた世界で、ぼくは“影”と向き合う最初の試練に足を踏み入れる。

 扉の外に流れ込む霧は、濃く、冷たく、どこか湿った匂いがした。霧が足にまとわりつくたび、踏み出すことをためらわせる重さがあった。それでも、ぼくはその中へ一歩足を進めた。


 足元の板張りの床から、霧町の地面へ降り立つと、空気の密度が変わった。音というものがほとんど存在しない。風も川の音も車輪の響きも消え、霧が世界全体の呼吸を奪っているようだった。


「ハル……?」


 霧の向こうに揺れる影は、歩くたびに少しずつ形を変え、その輪郭が人なのか霧なのか定かではなかった。だが、確かに誰かがそこにいた。

 霧の中で、ぼくを呼ぶように立っている。


 車掌の言葉が背後で静かに響く。


「お気をつけて。霧町では、影はあなたの祈りに反応いたします」


 振り返ると、車掌は扉の前で帽子を軽く持ち上げ、深い霧の奥へ視線を向けていた。彼の姿も霧に溶けそうなほど淡かった。


「影はあなたの“未完”を映します」


 その言葉を最後に、扉が静かに閉まった。


 ぼくは霧の中でひとりになった。


 闇ではなく霧に包まれた世界は、深夜の夢の中のようで、地面の輪郭もわずかにぼやけている。足元を確かめるように一歩踏み出すと、砂と石が混じったようなざらつきが靴底に伝わってきた。


「……ハル?」


 もう一度呼ぶと、霧の向こうで影がふっと揺れた。


 その揺れ方が、まるで返事をするみたいに見えて胸が熱くなる。

 ぼくは足を速めた。霧の中の影はぼくが近づくほど輪郭を曖昧にしていくようで、掴めるようで掴めない存在に見えた。


「待って……!」


 霧の中で声が少し吸い取られる。それでも、影はふり向くように揺れた。


 やっとその輪郭が近くに来たとき、ぼくは息を呑んだ。


 白いシャツ。痩せた肩。短い黒髪。

 霧がその姿を削りながらも、形の中心に確かに“あいつ”がいる。


「……ハル……?」


 影は答えなかった。

 でも、ぼくに向き合うように立ち止まった。


 ぼくの胸の奥から、ずっと押し込めていた痛みがこぼれだすような気がした。


「言いたいことがあったんだ。あの日……病室で」


 霧の奥に沈むハルの顔は表情が読めなかったけれど、動かなかった唇が、ぼくには確かにあの日の続きを求めているように見えた。


「ぼく……怖かったんだ。おまえの顔を見るのが。あんなに苦しそうにしてるのに、何もできなくて……逃げたんだよ」


 影はゆっくり、ぼくに向かって手を伸ばした。

 その動作が、あまりにも、あの日のハルの仕草に似ていた。


「気づいてたんだろ……? ぼくが目をそらしたの。あのとき、ほんとはさ……言いたかったことがあるんだ」


 喉が詰まった。

 霧の中で、影の手が触れそうな距離にいる。


「……ごめん、ハル」


 その瞬間、影の手がぼくの胸に触れた。


 けれど、それは手の温もりではなく、冷たい霧が心臓を通り抜けるような感触だった。

 背筋が震え、思わず後ずさる。


「っ……!」


 影の表情が、ぼんやり揺れた。

 その揺れが、悲しんでいるようにも、笑おうとしているようにも、どちらとも取れなかった。


 すると、霧の奥からもうひとつの影が現れた。

 最初の影よりも小さく、細く、動きが弱い。

 その影が近づくたび、霧がざわざわと揺れ、冷たい風がぼくの足元を撫でた。


「……だれ?」


 二つ目の影は、声も動きも弱かった。

 ただ、霧に包まれたまま、ぼくのそばで立ち止まる。


 車掌の声が、霧の中から突然響いた。


「影はひとつとは限りません」


 振り返ると、いつの間にか車掌が霧の中に立っていた。

 彼のランタンの灯りが霧を押しのけるように揺れている。


「ひとつは“行けなかった後悔”。もうひとつは“届かなかった言葉”の影です」


 ぼくは二つ目の影を見た。

 それは、あの日のハルが言おうとして言えなかった言葉の形──。


 胸が脈打った。

 影の唇が、何かをゆっくり動かす。


 言葉にならなかったあの日の続きを、

 ぼくは初めて、耳を澄まして聞こうとした。


 影が、小さく、確かに口を動かした。


 ──ありが…と。


 その瞬間、霧がぱっと揺れ、二つの影が同時にふっと薄くなった。

 まるで霧そのものに吸い込まれるように、輪郭が消えていく。


「ま、待って!」


 手を伸ばしたときには、霧の揺らぎだけが残っていた。


 車掌が静かに言った。


「影は言葉の断片を残します。それは祈りへの“応え”の最初の形でございます」


「応え……?」


「ええ。眠り町に近づくほど、その応えはさらに深くなってゆくでしょう」


 霧がゆっくりと晴れ始める。

 足元の石がはっきり見え、霧の奥から駅舎の影が浮かび上がるように姿を現した。


「そろそろ列車に戻りましょう。霧町は、最初の試練に過ぎません」


 ぼくは霧の消えた空間を振り返った。

 そこにはもう影の姿はなかった。


 だけど。

 さっき聞いた声の欠片──

 “ありがと”

 あの言葉だけが、胸に深く突き刺さって残っていた。


 ぼくは小さく息を吸い、車掌のあとを追った。


「……ハル。ちゃんと聞こえたよ」


 霧町の駅名標が、霧の最後の名残を背にして静かに立っていた。

霧町で流星が見た影は、後悔と、届かなかったハルの言葉の象徴でした。次回は列車に戻り、次の駅“未練が丘”へ向かいます。ここで流星の過去がさらに揺さぶられます。

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