第2話 車掌の灯りと揺れる廊下
列車に乗り込んだ瞬間、世界は静まり返った。車輪の音もなく進む車内で、ぼくは車掌の灯りに導かれ、眠り町へ向かう旅の最初の一歩を踏み出す。
扉が閉まると同時に、車内の空気がすっと変わった。夜の湿った風が途切れ、代わりに古い木材の匂いが漂ってくる。床は磨かれた板張りで、かすかにきしむ音がした。照明は弱く、天井に並ぶランプがゆらゆらと炎を揺らしながら光っている。
まるで昭和初期の観光列車の内部写真を見ているような、そんな時代錯誤でどこか懐かしい雰囲気だった。
「こちらへどうぞ、流星様」
車掌が柔らかい声で言った。胸元の小さなランタンが灯りを揺らし、廊下の壁に淡い影を落としている。その影は人のものに見えるのに、人のものではないようにも見えた。
ぼくはその後ろに続いて歩きながら、列車の奥を見まわした。窓の外には夜の風景が流れている。だが外に見えるのは川や街ではなかった。黒い空間のそこかしこに、小さな光が浮かび、ゆっくりと沈んだり上がったりしている。流星群の欠片のような、見たことのない景色だった。
「これ……外、ですよね?」
「ええ。けれど、今ご覧になっているのは“世界の外側にある風景”でございます」
さらりと言われ、ぼくは思わず口を閉じた。
車掌は静かに歩きながら続ける。
「時刻なき鉄道は、眠れぬ心を乗せて走る鉄路。線路は常に揺らぎ、行き先は“乗客の祈り”によって形を変えます。ですから、窓の外に映るのは現実の景色とは限りません」
「……祈り?」
「はい。祈りは、心が生み出す最も正直なかたち。その濃淡によって世界の見えかたが異なります」
祈り──あの切符に書かれていた言葉が、胸に重く蘇る。
ハルにもう一度会いたい。
会って、伝えられなかった言葉をちゃんと届けたい。
「流星様は、亡き方への祈りを抱えております」
車掌がふと、ぼくの横顔を見た。
「その祈りは、まだ結ばれていない。だからこの列車は、あなたを迎えに来たのです」
「……祈りが、結ばれる?」
「ええ。未完の思いは、眠り町で形を得ることもありますし、得ないこともあります」
「会えるって……ことですか?」
「それはまだ、申し上げられません」
車掌の答えはいつも静かで、曖昧さを含んでいた。まるで確信しているのに、ぼくが聞くにはまだ早いと言われているようだった。
列車はゆっくりと揺れ、床の下から微かな振動が伝わってくる。ぼくは歩きながら、車窓にちらつく光を見つめた。それは星のようで、でも星ではなく、何かの記憶の欠片のようにも思えた。
廊下の途中に、小さな待合スペースがあった。木製の長椅子が二つ置かれ、中央に丸いテーブルがある。そこには厚手の紙に描かれた鉄道路線図が貼られていた。
「これ……路線図ですか?」
「ええ。眠り町までの道のりを示しております」
ぼくは近づいて目を凝らした。
路線図にはいくつもの停車駅が並んでいる。けれど、どれも普通の駅名ではなかった。
“霧町”
“未練が丘”
“忘れられた橋”
“白紙通り”
“思影の窪み”
どれも、現実とは思えない名前。
けれどどこか、心の奥をくすぐるような響きを持っていた。
「眠り町行きには、いくつかの停車駅がございます。それぞれの駅で、乗客は自分の影と向き合うのです」
「影……?」
「痛み、後悔、言えなかった言葉、置いてきたもの。人にはみな影があります。そして影は、祈りがある限りつきまとう」
車掌の瞳がランタンの光を受けて揺れた。
「流星様。あなたには、どのような影がございますか?」
問われ、ぼくは言葉を失った。
影なんて、考えたことがなかった。
でも、もし影があるとすれば──。
ハルの最後の表情。
呼吸が浅くなり、顔が少し痛みでゆがんでいた。
それでもぼくを見て、何か言おうとした。
あの日。
ぼくは、怖くて目をそらした。
「……ぼくは、ちゃんと向き合えなかった。最後に、目をそらしたんです」
声にすると、胸が締めつけられた。
「それが影でございます。しかしそれを恐れる必要はありません。影は、見つめたときに初めて形を変えるものです」
車掌の言葉は冷たくはなく、ただ静かに響いた。
「霧町にはもうすぐ到着いたします。そこは“最初の影の駅”でございます」
「最初の……」
「ええ。流星様が、眠り町へ向かうための一歩を踏み出す場所です」
列車はゆっくりと速度を落とし始めた。
車窓の外の光がすっと消え、代わりに濃い霧が立ち込める。霧は白というより灰に近く、風に揺られながら車体を包むように漂っている。
遠くで小さな鐘が鳴った。
まるで霧の中から呼ぶような、かすかな音色。
「間もなく──霧町に停車いたします」
車掌が帽子に軽く触れ、扉の前で一礼した。
「どうかご準備を。霧町で流星様が見るものは、あなたの祈りの一部でございます」
扉の前に立つと、外の霧が生き物のようにうごめいているのが見えた。白さの向こうに何かがぼんやりと揺れている。
「ぼくは……降りるんですか?」
「降りるかどうかは、流星様が決めることです」
扉の外に手を伸ばしかけたそのとき、
霧の向こうで誰かが囁いた。
──りゅうせい。
聞き覚えのある声だった。
胸の奥が熱くなる。
呼びかけたのは、間違いなくハルの声。
「ハル……?」
振り返ると、車掌が静かに頷いた。
「影は、ときとして声を持ちます」
扉が、きい、と音を立てて開いた。
冷たい霧が車内に流れ込み、ぼくの足元をやわらかく撫でた。
ぼくは、外を見つめた。
霧の奥に、人影が揺れている。
その姿は、どう見ても──。
「……ハル?」
ぼくは、迷いと恐れを抱えたまま、扉の境界に足をかけた。
霧の中で揺れる“声の主”の正体と、流星が影と向き合う最初の試練を書きます。




