第16話 朝の街、時計のない広場
黎明を越えた列車が停まったのは、時計の針を失った朝の街。
影のない広場で、カイは初めて“誰かの朝”を手伝うことになる。
列車が緩やかに減速し、澄んだ光が車内に流れ込んだ。
扉が開くと、パンの香りと焙じ茶のような温い匂いが鼻先をくすぐる。
ホームの先に小さな街が広がっていた。屋根の赤い家々、開きはじめた木戸、軒先の鳥籠がからん、と短く鳴る。
けれど、この街のどこにも“時刻”は見当たらない。塔に掲げられた大時計には針がなく、広場の中央に据えられた日時計には影が落ちない。
――朝は来ているのに、時間が立ち上がってこない。
カイはそんな感覚に、胸の奥が少しざわつくのを覚えた。
「朝の街へようこそ」
ふり返ると、車掌が帽子のつばを指で押さえ、柔らかく微笑んでいた。
「ここは“時計のない広場”を中心に動く街。動く、と言っても時計は回りませんがね。あなたのように黎明を越えた旅人が、いつも最初に立ち寄る場所です」
「どうして針がないの?」
「針は人が持ち込むものだからですよ。街は器、針は心。――ご武運を」
車掌はそれだけ告げると、扉を閉めた。列車は短い汽笛を残して、朝の光の方角へ消えていく。
カイは肩に軽い風を受けながら、石畳の広場へ歩き出した。
広場の縁では市場が準備をはじめている。木箱に盛られた酸っぱい匂いの果物、粉砂糖が雪のようにかかったパン、銀の桶に浮かぶ白い花。
人々は互いに挨拶を交わすが、誰の目も塔の大時計には向かない。
――時間を気にしないのではなく、時間をはじめられないのだ。
そう思った瞬間、カイの腕を小さな手が引いた。
「お兄ちゃん、塔の鐘は鳴らせる?」
見上げると、そばかすのある少女が息を弾ませている。
「塔の鍵番さんは、夜明けにしか来ないの。今朝はまだ来てなくて……だから、診療所が開かないんだ」
少女の視線の先、石段の下で若い母親が小さな男の子を抱えていた。頬は赤く、呼吸が浅い。男の子の手の甲は熱の色に染まり、目は眠りと戦っている。
「ミオ!」母親が少女を呼んだ。「お医者さま、もう少しで来るって言ってたでしょう?」
「でも、診療所の扉は“朝の鐘”が鳴らないと開かないの。合図が要るの」
ミオ――たぶん少女の名前――はカイの手をもう一度握り直した。
「旅人さんなら、鳴らせるかもしれない。鐘は“外から来た朝”を好むの」
“誰かを救いたい”。
旅の始まりに自分で挙げたはずの言葉が、胸の内側から表面へ押し出される。
――病室の光、ユウの笑顔。
カイは短く息を吐いて頷いた。「やってみる」
塔は広場の北側に立っている。石段は朝露でうっすら濡れており、一段あがるごとに靴底がかすかに鳴った。
扉の前には古い錠前。鍵穴のふちに摩耗した跡があり、何度も触れられてきたことを物語っている。
ミオはポケットから金色の小さなリングを取り出した。
「鍵番さんの忘れ物。夕べ、屋台の片づけを手伝ったときに預かったままなの。返そうと思ってたら、朝になっちゃって」
リングは鍵ではなかった。指輪――いや、もっと違う。細い文字が縁に彫り込まれ、内側には極小の刻印が打たれている。
カイが指にはめると、肌に触れた金属が微かにあたたかく脈打った。
扉の錠前が、こちらの様子をうかがうように鳴る。
「触れてみて」ミオが言う。「“朝を持っているか”を試すんだって」
カイは右手を伸ばし、錠前に触れた。
――白い樹の丘、石碑に刻まれた文字。
――「忘れないで。生きている限り、僕たちは再び会える」
胸の中心で、静かな脈が一度、強く跳ねた。
かちり。乾いた音がして、扉はすこしだけ重心を緩めた。押し開くと、内部へ冷たい空気が流れ込む。
螺旋階段が上へとのび、その最上に鐘の鈍い影が見えた。
「わたし、ここで待ってる」
ミオは母と弟のそばに戻る。男の子の唇は乾き、うわ言のように何かをつぶやいている。
――時間が立ち上がる前の朝は、長くて頼りない。
カイは階段に足をかけた。
螺旋は思ったよりゆるやかで、足場の石には無数の足音が刻んだ滑らかな窪みがあった。
途中、窓から広場が見えた。影のない日時計、針のない大時計、準備を急ぐ市場、心配そうに見上げる母子。
もう一つの窓からは、遠くに列車の線路がのびているのが見えた。あの“時刻なき鉄道”が通ってきた跡。
――僕の針は、どこだ。
問いはすぐに答えへ変わる。
――ここへ来た理由が、針になる。
鐘の室に着くと、厚い梁に吊られた鐘が眠っていた。表面には星座のような点刻が広がり、縁には古語の刻印。
綱は一本、窓際に垂れている。手で握ると、掌にうまく馴染んだ。
カイは一度目を閉じ、胸の奥にある鼓動へ耳を澄ます。
ユウ。
君の言葉は、僕の中で今も続いている。
――「生きてるって感じがするからさ」
息を吸う。吐く。
綱を引く。
鳴った。
ひと打ち目は細く、塔の骨の中を擦り抜けるような音。
ふた打ち目は少し太く、広場の石に柔らかな円を描いた。
み打ち目で音は空へほどけ、街の屋根を越え、遠い丘の白い樹に触れ、そして戻ってきた。
音が戻るとき、広場の日時計に薄い影が生まれた。
影はゆっくり伸び、石に刻まれた刻線の上をすべりながら、止まっていた空気へ合図を送る。
塔の大時計の中心に小さな光がともり、針のない文字盤に、見えない針が回転の意志だけを宿した。
階段を駆け降りると、市場の店主たちが口々に「ああ、朝だ」と言って笑った。
ミオの母が診療所の扉に手をかけると、錠は自然に外れた。
「入って!」
中から白衣の男が顔を出した。髪に寝癖が残っているが、目は鋭い。
「鐘の合図が遅れて、扉が反応しなかった。さあ、ベッドへ。若い旅人、助かったよ」
男の子は汗をにじませながらも、鐘の音に耳を澄ませている。脈は速いが、目の焦点が戻ってきた。
医師は素早く体温を測り、喉の腫れを確かめ、薬棚から琥珀色の液体を取り出す。
「脱水だ。熱は高いが、峠は越えられる。――お嬢さん、よく頑張ったね」
ミオは泣き笑いになり、母の肩に額を押し当てた。
外へ出ると、広場の空気が一段軽くなっていた。パンの香りがはっきりし、鳥籠のからん、が澄んで聞こえる。
塔の足元で、白い前掛けの老女がカイを待っていた。
「うちの店に来なされ。旅の針を合わせてあげるよ」
老女の店は“時計師の小間物屋”と看板に書かれているのに、どの時計にも針がない。代わりに小さな心臓のような部品がガラスの中で微弱に鼓動している。
「針はね、あんたが歩く先で勝手に育つものさ」
老女は笑い、引き出しから銀の懐中時計を取り出した。蓋を開くと、文字盤は空白で、中心に透明な宝珠だけが嵌っている。
「これは“空の時計”。黎明を越えた者にだけ反応する。――手首に当ててごらん」
カイが当てると、宝珠の奥に薄い光の糸が現れ、鼓動に合わせてゆっくり揺れた。針ではない。けれど、確かな方向があった。
「この街では、あんたみたいな旅人が、たまに鐘を鳴らして時間を起こすのさ。そのたびに誰かの朝が始まる。あんたの鐘は、よく響いたよ」
「僕の鐘……」
「そうとも。あの子の熱を、朝へ渡した。――誰かのために鳴らした鐘はね、鳴らした者の中にも“朝”を残すんだよ」
店を出ると、ミオが駆けてきた。
「旅人さん!」
彼女は小さな紙袋を差し出した。中には蜂蜜を染み込ませた丸いパンが二つ。
「弟、眠れたよ。お医者さまが言ってた、明日には笑うって。これ、お礼に……」
「受け取るよ。ありがとう」
パンは手のひらほどの重みだが、その温かさは胸にひろがっていく火種のようだった。
ミオは塔を見上げて言った。「わたし、いつか鐘番になる。――朝を起こせる人になりたい」
広場の縁に、銀の車輪が滑る音がした。列車だ。
戻ってくるのではなく、街の先に新しい停留所をおろしているのが見える。
カイは胸ポケットに“空の時計”をしまい、広場の中心へ歩いた。
日時計には、さっきより濃い影が落ちている。影は南から東へゆっくり移ろい、刻線の上を静かに撫でていく。
――時間が「始まった」。
その実感が骨の中に沁みわたる。
ユウ。僕は今、誰かのために鐘を鳴らした。
それが、たしかに“生きてる感じ”に触れた瞬間だった。
「旅は続けますか」
声に振り返ると、いつの間にか車掌が広場の影から現れていた。朝の光が制服の縁を縫い、金のボタンが一瞬だけ青く瞬いた。
「はい。けれど、少しだけこの街を歩きたい。時間が立ち上がる音を、覚えておきたいから」
「いい心構えです。――朝は、分かち合うと強くなる」
車掌はそう言って、懐から薄い切符を出した。切符には発駅も着駅も書かれていない。
「次の行き先は“鏡の停留所”。過去と現在の重なり目。あなたの“価値探し”に、ひとつの答えが置いてあります」
「価値……」
「自分の針が指す方角、と言い換えてもいい」
市場のざわめきがふくらみ、パン屋の釜から新しい香りが溢れる。
ミオたちが診療所の窓から手を振るのが見える。
カイは胸ポケットの“空の時計”を指で叩いた。宝珠の奥で光の糸が脈を刻み、さっきより少しだけ太くなった気がした。
――僕の針は、誰かの朝を起こすときに伸びるのかもしれない。
そう思うと、歩幅は自然に少し広がった。
石畳を一巡りして広場へ戻るころ、影は午前へ入り、塔の鐘に陽が差した。
カイは塔を見上げ、心の中でそっと礼を言う。
ありがとう。君の音が、僕の中にも朝を残してくれた。
列車の汽笛が遠くで短く鳴り、風が駅の方角へ背中を押す。
カイは振り返って手を振った。ミオが両手で大きな丸を作り、それを胸に抱きしめるようにして笑う。
彼は笑い返し、ホームへと向かった。
扉が閉まる。
車輪が滑り出す。
朝の街が遠ざかり、塔の頭が屋根の波に沈む瞬間、懐の時計が微かに震えた。
見れば、宝珠の中心で針のかたちをした光が、ごく短く、確かに瞬いた。
――たぶん、これが“はじまりの一分”。
心のどこかでユウの笑い声がした気がして、カイは目を細めた。
“時刻なき鉄道”は、また新しい停留所へと滑っていく。
彼の朝は、もうひとりだけのものではなかった。
塔の鐘を鳴らし、カイは“誰かの朝”を起こした。
分け合われた朝は自分の針も育てる――
空の時計に灯った微かな光が、その証だった。




