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夜の川原に降りてくる列車  作者: たむ


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第14話 白い樹の約束

追憶の原に立つ白い樹の光は、まだ胸の奥で脈を打っていた。

“祈る者は旅を続けられる”――その言葉の先で、カイは約束を選ぶ。

 列車は、夜のゆりかごのように静かに揺れていた。

 追憶の原が遠ざかってから、車窓の外は淡い灰色に溶けはじめ、星のぬくもりと夜の冷たさが混ざり合っている。明け方ではない。だが、夜の底に小さなうす明かりが生まれ、そこから世界の輪郭がやり直されていくような気配があった。


 カイは胸に手を当てた。内側で、白い樹の光がまだ微かに脈打っている――そんな錯覚がある。手のひらは温かく、指先は冷たい。温度差の境目に、“約束”という継ぎ目が走っていた。


 「お客さま」


 不意に、柔らかな声がした。顔を上げると、通路に黒い制服の人影が立っている。帽子の鍔に月の欠片のようなエンブレムが光り、袖口から白い手袋がのぞく。車掌だ、とカイは思った。けれどその瞳は、どこか森を渡る獣の目を思わせる深さを湛えている。


 「次の停車は短い“臨”になります。お降りにならなくても結構。ただ――」


 車掌は、懐から薄い冊子を取り出して差し出した。表紙は銀色で、角に百合の小さな型押しがある。文字はない。それでも、カイは読める気がした。“約束帳”――そんな響きが自然と胸に落ちる。


 「ここに書かれた約束は、白い樹の皮膚に刻まれます。叶わなくても構いません。ただ、嘘は長く残れません」


 「嘘は、残れない?」


 「そうです。嘘は、この鉄道では薄くなり、夜露のように消えます。残るのは、震えていても、本当に願ったことだけ」


 車掌の声は、ひとつ息を置くごとに、遠い鐘の音のように胸に鳴った。


 「……書かなければ、前に進めないのですか」


 「どちらでも。進むことも、戻ることも、ここでは同じになります。ただし、祈りにつながる方へは、風が吹きます」


 車掌は帽子の鍔を指で押さえ、静かに会釈して去った。通路の薄闇に姿が溶ける。残されたのは、手の中の銀の冊子と一本の鉛筆。鉛筆は短く、幾度も削られ、まだ削りかけの木の匂いがした。


 ページを開くと、うすい紙が夜の息にふるえ、小さな影を作った。最初のページには、知らない誰かの文字が一行。

 ――「母の歌を忘れない」。

 次のページには、また別の文字。

 ――「海を見る。怖くても」。

 さらに捲る。

 ――「名前を名乗る」。

 ――「病室を出る」。

 ――「朝を迎える」。

 ――「あの人にごめんと言う」。


 小さな祈りが、針の目ほどの穴を開けて夜を通している。糸の先がどこへ結ばれているのか分からない。それでも、確かに結ばれている。紙の薄さに、言葉の重さが浸みていく。


 カイは鉛筆を握った。掌が汗ばんでいるのに、芯は乾いている。一本の線を引けば、それは夜の上に一本の橋になるだろう――そんな予感があった。それでも、書きたい言葉はすぐには形を取らない。胸の奥で、幾つもの候補が行き来する。


 (生きること。忘れないこと。許すこと。あの川へ行くこと。ユウに、話すこと)


 書こうとすると、指が震えた。震えは“嘘”ではない。だからこそ、紙はその震えをそのまま受け取ってくれる気がした。


 列車はかすかに速度を落とした。床下の音が遠くへ退き、車輪のひと回りごとの息づかいがはっきりする。窓の外、闇はまだ深いのに、見えない野原が広がっている気配がある。そこに風が通り、風の筋が幾本も、まるで光の糸のように引かれていく。


 (約束は、しばるためじゃない。ほどくためだ)


 カイはそう思った。胸のどこかで固く結ばれたままの痛みを、一旦ほどく。そのために、結び直す。結び直しは、過去に対する裏切りではない。むしろ、忠実さの更新だ。ユウに対して、そして自分自身に対して。


 彼は、最初の文字を置いた。


 ――「冬の川へ行く。ユウと約束した場所へ」


 そこで手を止める。鉛筆の先に、紙の繊維がほんの少しまとわりついた。指でそっと払い、次の行を書く。


 ――「僕は、生きていることの意味を、一度でいいから受け取る。怖くても」


 新しい行。


 ――「誰かの夜に灯りを渡す。小さくても」


 さらにもう一行。


――「自分の名前を呼ぶ。逃げずに」


 書き終えた文字列は、黒い糸のように並んだ。揺れるたび、糸は緩んだり、わずかに張ったりする。紙はそれを黙って抱え、冊子の背はきゅっと小さく鳴った。胸のざわめきが、少しずつ形を持った風に変わる。風は窓の隙間から入り、髪を撫で、首筋を通って出ていく。


 その時、列車がかすかに軋み、ほんの一拍だけ止まった。

 ホームのない停車。ドアは開かない。鈍い鐘の音も聞こえない。けれど、外気だけが確かに一瞬、車内へ流れ込んできた。夜露の匂いに混じって、冷えた土の匂い、遠い焚き火の匂い。どこかで誰かが、眠れないまま見ている火の匂い。


 「“臨”――“樹影の踏切”でございます」


 天井のスピーカーが、囁くように告げた。踏切——列車の道と、別の道が交わる場所。その音のすぐ後、カタン、と乾いた音がした。ページの上に、白い粒がひとつ落ちた。霧の駅で受け取った百合の花びら――いや、違う。違うのに、よく似たもの。薄い、半透明の鱗片。指先に乗せると、ひんやりとしている。


 「樹皮だ」


 思わず呟いたカイの声に、自分自身が驚いた。樹皮は紙の上で微かに光り、書いた四行の上をなぞるように、細い亀裂を描いた。亀裂は砕けず、むしろ縫い取るように見え、文字はひとつひとつ、深さを得たように思えた。


 息を吸う。胸の奥、白い樹の脈動が強まる。まるで約束の言葉が、樹へと逆流している。いや、逆だ。樹の奥底から、カイの言葉が汲み上げられている。上下は入れ替わり、前後は重なり、列車は進むのに、ここだけは静止している。


 ふいに視界の端で、ベッドサイドのライトが点く。

 ――病室だ。

 呼び鈴の赤い灯。透き通るような吐息。点滴の滴下と、モニターの細い線。冬の午後、ベッドの上でユウは笑って、少し渋い顔で言っていた。


 「なあ、カイ。約束ってさ、うまく守れないものもあるじゃん? 俺、たぶんそっちの方が多いわ」


 「……うん」


 「でも、やぶれたら終わりじゃないよな。ほどいて、結び直す。そのために、二人いるんだろ」


 「二人?」


 「そう。約束ってさ、ひとりじゃ成立しない。二人だから、やり直せる。片方が握っててくれる間、もう片方はほどけるんだよ」


 ユウは、指先で空を結ぶ仕草をした。空は窓の外の白さとつながり、白さは雪に似て、雪は光に似て、そのまま眠りへと滑っていくようだった。


 記憶が薄れていく。代わりに、列車の床下から小さな規則正しい音が戻ってきた。前へ――次の拍、前へ。カイは冊子をそっと閉じ、胸のポケットにしまった。閉じる瞬間、背の糸がまた小さく鳴る。その音は、遠い踏切の警報の名残に似て、同時に子どものころの風鈴にも似ていた。


 「おや、書けましたか」


 振り向くと、車掌がいつの間にか通路に立っていた。出会うたびに違う角度の影をまとっている。不思議だが、怖くはない。


 「はい。四行」


 「必要にして、充分です。約束の重さは、行数では量れません。ですが、行を重ねるほど風は増えます」


 「風?」


 「列車はレールで走りますが、心は風で走るので」


 車掌は目を細め、ポケットから薄い封筒を取り出した。封筒の表には手書きの文字で「帰り道」とある。裏返すと、「進み方」とも書いてある。二つの文字は同じ線で書かれ、くるりと輪になっていた。


 「これを差し上げましょう。次の場所で必要になります。“白い樹の約束”は、鍵にも地図にもなりますから」


 受け取った封筒は軽く、しかし何かが確かに入っている手応えがした。封はされていない。指をかければ、簡単に開く。でも今は、開きたくない。そのための“今”がある気がした。


 列車は速度を上げた。窓の外に、星が少し戻る。うす明かりは遠のき、また夜が濃くなる。しかし濃さはもう、重りではない。夜は布で、布にはしつけ糸のように細い光が縫われていく。縫う針は、約束の先端にある。


 「車掌さん」


 呼び止めると、彼は帽子の鍔に指を添えて振り返った。


 「“眠り町”は、どんな所ですか」


 「眠れない人が、眠れないまま目を閉じられる町です。目を閉じているのに見えてしまうものを、いったん机に置ける場所」


 「置いたら、忘れますか」


 「いいえ。忘れたふりを、上手にできるようになります。ふりを覚えるのも、ときに生存の術です。ですが、お客様は――」


 「僕は?」


 「ふりを覚えるより、灯りの渡し方を覚えるかもしれない。百合の花を、ほら、あなたはもう持っている」


 ポケットの中で、花の香りがかすかに立った。霧の駅で受け取ったあの百合。祈りの花。花弁は萎れていない。むしろ、夜と同じ速度で新しくなっていく。花は時間に対して、別の拍で生きている。


 車掌は会釈し、ふっと薄れた。通路に残るのは、帽子の影の輪郭だけ。輪郭はすぐに崩れ、座席の影に混じって見えなくなる。列車は歌い始める。歌と言っても、誰かの声ではない。車輪、レール、継ぎ目、窓枠、車内灯――それぞれの部品が、ごく小さな音で同じ旋律をなぞる。旋律は単純だ。前へ。前へ。ときどき、横へ。ときどき、下へ。ときどき、上へ。けれど、全体としては前へ。


 カイは封筒を片手に、反対の手で冊子の背を撫でた。撫でるたび、背の糸が鳴く。遠い冬の川の流れが、耳の奥で応える。ユウの笑い声は、記憶というよりも、風の言語に近くなっていた。意味の前に、温度がある。温度の前に、拍がある。拍の前に、沈黙がある。その沈黙が、今夜は恐ろしくない。


 やがて、窓の外に細い灯りの列が現れた。川沿いの集落のようにも見えるし、空に吊られた提灯の行列のようにも見える。灯りは流れに沿ってゆっくり移動し、それぞれがちいさな影を引いている。影は濃くも浅くもなく、ただ灯りの背中に寄り添っていた。


 「“夜の川原”」


 自分でも気づかないほど小さな声で、カイは言った。口からこぼれた言葉は、驚くほどしっくりと舌に乗った。初めて出会う地名なのに、長いあいだ忘れていた故郷の言い方に似ていた。


 スピーカーが、囁く。


 「まもなく、“夜の川原”に停まります。停車は短く、降車は自由、乗車は祈りに従います」


 封筒の内側で、何かがかすかに鳴った。紙でできた鍵が、紙でできた鍵穴を試すような乾いた音。その音に背を押されるように、カイは立ち上がる。膝は軽い。意外だった。もっと重くなると思っていた。むしろ、前の方が重かった。言葉にする前の約束は鉛のように重い。言葉になった約束は、鉄のように強い。重さは同じでも、持ち方が違うのだ。


 列車は減速し、やわらかい弧を描いて暗がりの底へ滑り込む。窓の外、川が現れる。夜の上に夜が重ねられ、その継ぎ目に銀の川が挟まっている。水面は光でざわめき、岸辺には背の低い篝火が点々と置かれ、人影が静かに集まっている。誰も話さない。話さないのに、会話がある。火と火のあいだを、祈りが渡されている。


 ドアが開いた。冷たい空気が胸いっぱいに入り、肺の内側がじんと疼く。手すりに触れると、金属の冷たさの奥に、薄い脈を感じた。レールを通じて世界中の列車とつながっているかのような、そんな錯覚。


 ホームはない。土の匂いがする。川原へと伸びる踏み跡に、百合の花弁がところどころ落ちていた。拾うと、指先に柔らかな湿りがつく。湿りは涙ではない。けれど、涙とよく似た成分でできているのだろう――そんなふうに思えた。


 川の音は小さい。小川のように見えて、底は深い。水は急がない。急がないのに、決して止まらない。カイは靴を脱ぎ、片方ずつ持って川縁に立った。水に足を入れようとして、ふとやめる。白い息が濃くなり、胸の奥の樹がまた脈をうつ。


 (今じゃない。いまは足じゃなく、言葉から)


 封筒を開ける。中に入っていたのは、一枚の小さな切符だった。

 「約束切符」。

 行き先の欄には、震える文字でこう印刷されている。


 ――「眠り町 行」。

 その下に、手書きで追記があった。

 ――「経由:冬の川」。


 切符の端に、すでに小さな判が押されていた。判の文字は読めない。けれど、押すときの圧だけが紙に残っていて、その圧が不思議と胸の鼓動と同期した。


 カイは切符を川面へかざした。火の灯りが反射し、文字が揺れる。川原に立つ人々は、それぞれの手元で同じように何かを掲げている。写真だったり、手紙だったり、鍵だったり、古い鈴だったり。皆、何かを見せるのではなく、何かに見せている。水に。夜に。風に。あるいは、白い樹の根の先に。


 「ユウ」


 名前は、火に焼べた杉の香りに混じって、低く空気へ沈んだ。声にするだけで、世界が少し形を取り戻す。名前で呼ぶこと。それは過去を呼び出す呪文ではなく、いまここにいる自分を確かめる合図なのだと、カイはゆっくり理解した。


 「僕は行くよ。君と約束した川へ。今日じゃなくても、必ず。怖くても、行く。行って、話す。聞く。もしも川が何も言わなくても、僕が言う。僕の言葉で」


 風が頬を撫で、ほんのわずかに水が跳ねた。飛沫が切符にかかる。紙はしなやかで、折れない。水は染みるが、文字は滲まない。滲まないのは、インクが強いからではない。文字の裏に、樹皮のひびが走っているからだ。あの小さな鱗片が、切符にも移ったのかもしれない。


 「――灯りを渡すこと、忘れない」


 誰に誓うでもなく、川に向けて言う。言い終えると、胸の奥の光が静まった。治まるのではない。燃えるものが、安定した秩序を得たときの静まり。炎にも鼓動があるのだとすれば、いまはちょうど、拍と拍のあいだ。やさしい無音。


 背後で、列車のベルが鳴った。

 短い停車は終わるらしい。

 カイは靴を履きなおし、切符を封筒に戻す。そのとき、封筒の底から、さらに小さな紙片が指先に触れた。取り出すと、名刺ほどの薄さ。表には何もない。裏には、たった一行。


 ――「誰かを救いたいと思ったら、まず足元の石をどけること」。


 思わず笑ってしまった。大それたことではないのだ。夜の川原の小さな石。明日、どこかの路地の段差。病室のわずかな寒さ。救いは、たぶんいつも、手を伸ばせば届くほど小さく、新鮮で、具体的だ。


 振り返ると、川原にいた人たちは、皆、それぞれの火へ戻ってゆき、火は次の人の手へと移っていく。灯りが渡されるたび、夜は薄くなり、同時に深くなる。薄さと深さは喧嘩をせず、交互に席を譲り合っている。カイも歩き出す。列車へ。背中で火がひとつ小さく鳴った。


 ドアが閉まる直前、風が駆け込んできた。風は封筒の口を軽く弾き、封は自然に閉じた。列車は静かに動き出す。川原が後ろへ流れ、火の列は次第に点へ、やがて針の頭ほどの光へ縮む。最後に残るのは、水の音の記憶だけ。けれど、それもすぐに、車輪の拍と溶け合った。


 座席に戻る。

 窓に映る自分の顔は、やはり少し変わって見える。頬の影が薄くなり、目の奥に街灯のような小さな明かりが灯っている。誰かがその灯りを必要とするなら、いつでも手渡せるように、掌をひらく練習をしておこう。思っただけで、掌の皮膚が少し柔らかくなった気がした。


 車内の天井灯が一段階だけ明るくなり、すぐに元に戻った。目が慣れただけかもしれない。それでも、たしかな“今”の合図のように感じられた。ポケットの中の約束帳は、背の糸を鳴らして沈黙している。沈黙は、これから語られる言葉のために椅子を空けてくれている。そこへ腰を下ろすのは、カイの番だ。


 スピーカーが告げる。


 「次は、“影送りの丘”。その先、“眠り町”。ご利用の方は、お気持ちの支度を」


 “支度”。

 荷物は少ない。けれど今夜、増えたものがある。四行の言葉。百合の香り。封筒。小さな紙片。そして、川の冷たさと火の温度の、具体的な記憶。


 カイは目を閉じた。眠りではない。祈りでもない。祈りの手前で息を整える。息は白くならない。車内だからだ。けれど、胸の奥の白い樹は、相変わらず静かにうなずいている。

 ――ほどいて、結び直して、渡す。

 その簡単な動作の確かさが、いま夜のど真ん中で、何よりの灯りだった。

約束は縛る縄ではなく、ほどいて結び直すための細い糸。

“夜の川原”で得た拍と静けさを手に、カイは次の駅へ向かう。

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