第11話 月の光、影の囁き
夜汽車の窓から見える月は、彼の心を照らすようであり、また試すようでもあった。夢と記憶の境界で、少年は「影」と出会う。
列車は、月明かりの下を音もなく進んでいた。
車窓の外に流れる景色は、現実とも幻ともつかない。ゆらゆらと波打つ川のように、時間そのものが揺れているようだった。
座席にひとり、カイは身を沈めていた。
頭を窓に預けると、わずかな振動が骨を伝ってくる。そのたびに遠くから響くような声が、心の奥を揺らす。
――君は、どこへ行くの?
振り向いても、誰もいない。
声は自分の内側から聞こえるようでもあり、すぐ隣から囁かれたようでもあった。
彼は小さく息を吸い、目を閉じた。
闇の底から、またあの記憶が浮かび上がってくる。
白い病室。
消毒液の匂い。
冬の陽の光。
ベッドの上で笑うひとりの少年――ユウ。
「なあ、カイ。俺たち、また一緒に行こうな。あの川までさ」
「……うん。でも、もう寒いよ」
「いいじゃん、冬の川。冷たいのが好きなんだ」
「なんで?」
「生きてるって感じがするからさ」
笑いながら言ったその言葉が、最後だった。
あの日から、カイの中で季節は止まったままだ。
列車の振動が変わる。
視界の先、霧のような光が窓の外を包み込む。
「眠り町まで、あと少し」
車掌の声が響く。だが乗客の姿は、相変わらずカイひとり。
「……眠り町」
その響きが、胸の奥でゆっくりと沈むように広がる。
眠りたい。
目覚めたくない。
そんな思いを、彼はもう何度も繰り返していた。
ふと、足元に気配がした。
薄青い靄の中から、影のような人影が浮かび上がる。
黒い外套に包まれたその姿は、どこか見覚えがあった。
「……ユウ?」
声に出した瞬間、影はゆっくりと顔を上げる。
しかし、それはユウではなかった。
瞳の奥に、夜を閉じ込めたような何か――。
「君は、まだ旅を続けているのかい?」
影が言った。
その声は、列車の走行音と混ざり、カイの耳に深く染み込む。
「旅って……僕はただ、眠り町に行くだけだ」
「眠るために?」
「そうだ。全部、忘れたくて」
影は小さく微笑んだ。
「忘れることは、救いではないよ。
君が求めているのは、きっと――思い出すことだ」
「思い出す……?」
「そう。彼の笑い声、冷たい川の水の感触。
あれは、君を痛めつけるためにあるんじゃない。
君を生かすためにある」
その瞬間、車窓の外に広がる月が、まぶしいほどに光を増した。
光は列車の中まで流れ込み、影の輪郭を白く溶かしていく。
「君は、まだ行ける。まだ、生きている」
そう言い残して、影は消えた。
座席の上には、淡い光の粒が残り、それがゆっくりとカイの胸へと吸い込まれていった。
カイは息を呑んだ。
胸の奥が、久しぶりに温かくなった気がした。
痛みと共に、懐かしい感情が蘇る。
「ユウ……僕、まだ行けるのかな」
答える声はない。
だが、列車の音が静かに変わった。
遠くで鳥の声がした気がした。
夜が少しだけ薄れ、車窓の向こうに、淡い光の川が見えた。
それはあの「冬の川」に似ていた。
冷たく澄んだ水面の向こうに、かつての二人の影が立っている気がした。
ユウの笑顔。
あの日の約束。
――「生きてるって感じがするからさ」
カイはゆっくりと立ち上がった。
列車はまだ走り続けている。
終点は、きっと眠り町ではない。
窓の外で、月が川面を照らしていた。
その光の筋が、まるでレールのように彼の行く先を導いている。
カイは、もう一度座り直した。
旅は続く。
まだ見ぬ駅へ、まだ知らぬ自分へ。
彼は、静かに息を吐いた。
その息は白く光り、消えることなく、夜空の中へと溶けていった。
夜の列車に現れた“影”は、失われた友の記憶か、それとも自分自身か。
カイの旅は、忘却から再生へと少しずつ形を変え始めていた。




