第1話 夜の川原に降りてくる列車
夜の川原は、世界の音がすべて溶ける場所だった。ぼくは眠れない心を抱えたまま、亡き友の声を探すように歩いていた。そのとき、霧の向こうから静かな光が降りてきた。
川原へ続く階段は、夜になると別の世界に続いているように見える。街灯の少ないその場所は、暗さが深すぎて境界が曖昧で、ぼくの影だけが細く長く伸びていた。夏の終わりとはいえ、夜風はすでに涼しく、草の匂いとわずかな水音が混じり合って漂ってくる。
ぼく──蒼井流星は、制服のまま、その階段をゆっくりと降りていった。ポケットの中では、いつから入れたか思い出せない小さな石の感触が転がっている。それを指先で転がす癖は、ハルがいなくなってから自然に身についてしまったものだった。
川は暗く、流れはゆっくりしていて、水面に映る街の光は細く歪んでいた。遠くに車の音、虫の声。すべてがぼくとは別の場所で動いているように感じられた。ひとつとして、ぼくのために存在しているものなんてないのだと思った。
「……ハル」
声にすると、胸が少しだけ痛んだ。
幼いころから一緒に過ごしてきた友人。
痛みやしんどさを、冗談と笑顔で誤魔化し続けた強いやつ。
病室で交わした言葉の数より、沈黙の時間のほうが長くなっていくのを、ぼくはただ傍で見ているしかなかった。
最後の日、ハルは何かを言おうとした。唇がわずかに動いた。でも、声にならなかった。その“言えなかった言葉”が、ぼくの時間を止めたままにしていた。
だから、夜になると川原へ来る。
風が運んでくる音に、どこかでハルの声が混ざっていないか探すように。
けれどその夜は、違う音がした。
金属をこすったような、長い、線の響き。
汽笛のような音。
ぼくは顔を上げた。川の向こう、霧の奥がわずかに明るくなっている。誰かのライトだろうかと思ったが、光の形は細い線のようだった。それはゆっくりと伸び、太くなり、やがて四角い影の輪郭をかたどり始めた。
光が揺らぐ。
霧が割れる。
そしてそこに現れたのは──ただの光ではなく、一両の車両だった。
銀色の車体。
古いランプ。
音を立てず川原の地面すれすれに停まった列車。
ぼくは言葉を失った。
列車はレールの上にいるわけではなかった。むしろ、レールそのものが列車の足元に後からすべり込むように生まれ、ゆらゆらと揺れながら伸びていった。
車体側面の文字が、霧に濡れたように光った。
《時刻なき鉄道》
《行先:眠り町》
見たことも聞いたこともない名前。
けれど、不思議と懐かしかった。
どこかでこういう風景を夢に見たことがある気がした。
扉がゆっくりと開く。
中からは柔らかい光が漏れ、暖かい空気が流れてくる。車内は古い木の匂いがした。懐かしい駅舎のような、どこか静かな時代の匂い。
「蒼井流星様」
名前を呼ばれ、肩が跳ねた。
扉の向こうから現れたのは、長い外套をまとった青年だった。灰銀色の髪に、夜の灯りを宿したような静かな瞳。胸元には小さなランタンが下がっており、薄い光を揺らしている。
「夜の旅のお時間です。どうぞ、ご乗車を」
「……誰ですか?」
「車掌でございます」
車掌は深く礼をした。丁寧だが、人間らしさが少し欠けたような、不思議な動きだった。
「ぼく、乗るなんて言ってません」
「切符はすでにお持ちです」
「切符?」
「胸にございます」
車掌がぼくの胸を指す。
まさかと思って手を当てると──そこに紙の感触。
いつのまにか、服の内ポケットに一枚の切符が入っていた。
白い切符の裏には、文字がにじんでいる。
『祈り:ハルにもう一度会いたい』
心臓が痛いほど脈打った。
「これは……ぼくが書いたんじゃない」
「祈りは、書いたものではなく、湧いたものが記されます」
車掌は淡々と言った。けれどその声は、どこか優しかった。
「この鉄道は、“まだ眠れぬ方”をお迎えするものです。行き先は眠り町。未完の祈りが集まる場所でございます」
「眠り町……?」
「亡き方との言葉が続くこともございますし、続かぬこともございます」
その言い方があまりに静かで、ぼくは質問を飲み込んだ。
「ですが流星様の切符は、乗車を指しております」
「……乗らなかったら?」
「旅は始まりません」
「乗ったら……?」
「旅が始まります」
ぼくは切符を見つめた。
裏に書かれた“祈り”が、指先に触れるたび、胸の奥を締めつけた。
ハルの最後の言葉。
届かなかった声。
あの日から止まったままの、ぼく自身。
その全部が、切符の重さになっているようだった。
車掌は一歩引き、扉の向こうを指し示した。
「どうか、ご決断を。列車は“必要なときにだけ”現れます」
ぼくは夜の川原を見渡した。
風が止まり、川の音だけが残っている。
自分の居場所がどこにもない世界。
歩き回っても、眠れなくても、何も変わらない世界。
なら。
ぼくはそっと足を前へ出した。
扉の向こうの光が、ぼくを包む。
一歩、列車の床に乗る。
その瞬間、背後で静かに扉が閉まった。
世界が、ゆっくりと動き始めた。
列車は流星の祈りが形になったもの。次話では車内の描写と、眠り町までの最初の“駅”に向かう過程を書きます。




