閑話 殿は、ここに立つ(戦国時代にて)
霧が、濃かった。
火薬の匂いと、
血と、
土の湿り気が混ざっている。
視界は、悪い。
だが――
足音だけは、はっきり聞こえる。
(……来るな)
島津豊久は、
一度だけ後ろを見た。
叔父の姿がある。
馬に跨り、
まだ戦える。
(……なら、いい)
剣を握り直す。
刃は欠け、
腕は重い。
それでも――
立てる。
◆
前方。
赤備え。
揃いすぎた足並み。
押し潰すためだけに整えられた陣。
(……あれか)
名など、どうでもいい。
分かるのは一つ。
ここを通したら、終わる。
豊久は、
一歩前に出た。
「……殿は、ここだ」
誰に言うでもなく。
◆
矢が飛ぶ。
一矢。
二矢。
肩を掠め、
脇腹に刺さる。
だが、
足は止まらない。
(……まだだ)
銃声。
耳鳴り。
それでも、
前に出る。
剣を振る。
斬れるかどうかは、
問題じゃない。
近づかせない事。
それだけ。
◆
赤備えが、
一瞬だけ躊躇う。
それを見て、
豊久は笑った。
(……そうだ)
(俺一人でも、
止まる)
◆
次の瞬間。
銃声が、
近い。
衝撃が、
胸を貫いた。
息が、
抜ける。
(……ああ)
(ここまで、か)
◆
膝をつく。
それでも、
剣は離さない。
前を見る。
赤備えは、
まだ来ない。
止まっている。
(……十分だ)
豊久は、
最後に後ろを見なかった。
見る必要が、
なかった。
叔父は、
もう行っている。
(……殿、完了だな)
◆
身体が、
前に倒れる。
土の冷たさが、
頬に触れる。
音が、
遠くなる。
その中で、
豊久は確信していた。
自分は、
最後まで立っていたと。
それでいい。
それが、
殿だ。
◆
そして――
時代が変わり、
世界が変わっても。
剣を置かず、
名を置き、
背中で守る者がいる限り。
あの場所に立った魂は、
何度でも呼ばれる。
殿として。




