【短編】強欲で有名な悪徳令嬢の私に、冤罪で処刑された善良なパン屋の娘が憑依したようです ~人の心を知ったら商売のやり方が180度変わりました~
「ふふ、ふふふ…あはははは!」
月明かりが差し込む豪奢な自室で、私は高価なワイングラスを片手に高笑いを抑えきれなかった。手元の報告書には、長年目の上のたんこぶだったライバル商会「白鳩商会」が、ついに倒産に追い込まれたと記されている。もちろん、私の手の込んだ策略の成果だ。
「弱者は強者の糧となる。それがこの世の理ですわ。ねえ、お父様?」
壁に飾られた厳格な父、オルコット侯爵の肖像画に語りかける。父は、私のこの強欲さと計算高さを評価してくれている。
エリザベート・フォン・アストレア、18歳。侯爵令嬢にして、アストレア商会の若き実質的指導者。社交界では「輝く薔薇」と美貌を称えられる一方で、裏では「悪徳令嬢」「金に取り憑かれた強欲姫」と囁かれていることも知っている。結構なことだ。薔薇には棘があって当然。私の場合はその棘に少々、効果的な毒が塗られているだけのこと。
富こそ力。金こそ正義。それが私の信条。貧乏人の綺麗事など、何の価値もない。白鳩商会の主人が路頭に迷い、絶望している姿を想像すると胸がすくような思いだった。彼らが扱っていた香辛料のルートは、これで完全にアストレア商会のものとなる。莫大な利益が転がり込んでくるだろう。
「次は何を手に入れようかしら…ふふ」
更なる獲物に思いを馳せ、私は甘美な勝利の余韻に浸っていた。
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その夜、私は悪夢にうなされた。
薄暗い牢獄、断頭台、そして…泣き叫ぶ幼い子供たちの姿。覚えのない光景のはずなのに、妙に生々しい。
汗びっしょりで飛び起きると、なぜか頬に涙が伝っていた。
「…なんですの、今の夢は…」
気味が悪い。そう思った瞬間、頭の中に細い声が響いた。
『…寒い…暗い…どうして、私がこんな目に…』
「!?」
誰!? 今の声は、私の思考ではない!部屋を見渡すが誰もいない。侍女は別室で休んでいるはずだ。
「気のせい…ですわね。疲れているのかしら」
そう無理やり納得しようとしたが、声は再び響いた。
『お母さん…弟のルカ、妹のミリー…会いたい…パン、焼きたかったな…』
パン? 聞き覚えのない名前。そしてこの声の主から伝わってくる、途方もない悲しみと絶望感。それはまるで、冷たい霧のように私の心に纏わりついてくる。
「いったい誰ですの!? 私の頭の中から出ていきなさい!」
ヒステリックに叫ぶが、声の主には聞こえていないのか…あるいは意に介していないのか、その弱々しい呟きは止まらない。
『あんな嘘、誰も信じてくれなかった…私は何も悪いことしてないのに…あの貴族の人が…』
貴族…? 背筋に冷たいものが走る。まさか、私が潰した商売敵の関係者かしら? だとしても、なぜ私の頭の中に? これは呪いか何か?
「ふざけないで! 私はアストレア侯爵家のエリザベートよ! 亡霊ごときが、この私に取り憑こうなど許しませんわ!」
私はプライドを奮い立たせ、内心で叫び返した。
『エリザベート…? ああ、あなたが…私を…』
その声には恨みというより、深い深い悲しみと諦めのような響きがあった。
そしてその瞬間、脳裏に鮮明な映像が流れ込んできた。みすぼらしい身なりの少女が衛兵に引きずられていく姿。彼女は泣きながら何かを訴えているが、誰も耳を貸さない。その少女の顔は…どこかで見たことがあるような気がした。そういえば数ヶ月前に些細な窃盗の罪で処刑されたという、街のパン屋の娘がいたような…名前は確か…。
『私はアンナ…ただのパン屋の娘、アンナです…』
その声と共に、アンナと名乗る魂はまるで私の意識の一部であるかのように、私の中に溶け込んでしまった。
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アンナと名乗る魂との奇妙な同居生活は、私にとって苦痛以外の何物でもなかった。
美味しい料理を口にすれば『わぁ…私、こんな美味しいもの初めて食べました…』と素朴な感想が流れ込み、美しいドレスを身にまとえば『綺麗…でも、私には似合わないですね…』と遠慮がちな声が聞こえる。
その度に私の心にはアンナの純粋すぎる感情――喜び、悲しみ、そして何よりも深い無念さが流れ込んできて、私の神経を苛んだ。
「いい加減になさい、アンナ! あなたの感傷に付き合うつもりはありませんわ!」
『ご、ごめんなさい…でも、どうしても考えちゃうんです…』
アンナはすぐに謝るが、その存在は消えない。
特に私を苦しめたのは、アンナの記憶が断片的に流れ込んでくることだった。
小さなパン屋で額に汗して働くアンナ。焼き立てのパンの香ばしい匂い。常連客とのたわいない会話。貧しいながらも、そこには確かな幸せと温もりがあった。そして幼い弟と妹の世話を焼き、優しく微笑むアンナの姿。
(…これが平民の生活…私が今まで見下してきた者たちの日常…)
それだけならまだ良かった。だがアンナの記憶は、彼女が謂れのない罪で捕らえられ、処刑台に送られるまでの悲痛な日々をも私に追体験させた。
アストレア商会の名を騙る小悪党がアンナの店に押し入り、商品を強奪しようとした。アンナは抵抗したが、逆にその小悪党に罪をなすりつけられて衛兵に突き出されたのだ。その小悪党は私の商会の末端のチンピラだったことを、私はおぼろげながら思い出した。私が直接命じたわけではないのだが。
『助けてって叫んだのに…誰も…信じてくれなかった…寒くて、怖くて…お母さんのパンが食べたかった…』
アンナの絶望が、私の心臓を直接握りつぶすかのように痛む。それは私が今まで感じたことのない種類の痛みだった。罪悪感、というものだろうか。
「…私ではないわ。私は直接手を下してなど…」
そう呟いても、胸の痛みは消えない。
ある日、アンナの記憶の中で特に鮮明な光景を見た。処刑される前日、アンナが弟のルカと妹のミリーに宛てて、震える手で短い手紙を書いている姿だった。『強く生きて。いつかきっと、誰かがあなたたちを助けてくれると信じてる』と。
その手紙が彼らに届いたのかどうかは分からない。
アンナの想いが流れ込んでくる。もしあの子たちが今、路頭に迷っていたら…?
「…執事のセバスを呼びなさい」
私は侍女に命じた。柄にもない、とは思った。だがアンナの悲しみが、私自身の感情であるかのように私を突き動かしたのだ。
セバスにアンナの家族…特に幼い弟妹の現状を、ごく内密に調査するよう命じた。
「お嬢様がそのようなことをお気になさるなんて…珍しいことでございますね」
セバスは僅かに眉を上げたが、詮索はしなかった。それが彼の有能なところだ。
数日後、セバスの報告は私の予想以上に悲惨なものだった。アンナの母親は心労で寝たきりになり、ルカとミリーは日雇いの仕事を転々とし、満足に食事もできていないという。
『そんな…ルカ、ミリー…!』
アンナの悲痛な叫びが、私の頭の中でこだまする。
私は思わず、ペンを握りしめていた。
「…匿名で十分な額の金銭と食料を届けさせなさい。それから、母親のために腕の良い医者も手配して」
「エリザベート様…?」
『…ありがとう、ございます…!』
アンナの震える声。私の指示にセバスは驚きを隠せないようだったが、私は構わなかった。これは慈善ではない。ほんの気まぐれだ、と自分に言い聞かせながら。
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アンナの家族への援助は、私にとって最初の「らしくない」行動だった。だがそれは始まりに過ぎなかった。
アンナの記憶と共に、彼女がパン屋で培った様々な知識や経験も私の中に流れ込んできた。それは私が今まで学んできた帝王学や経済学とは全く異質な、生活に根差した知恵だった。
ある時、領内で不作が続き、小麦の価格が高騰した。多くの民が食糧難に喘いでいるという報告を受けた。以前の私ならこれを機に小麦を買い占め、さらに吊り上げた価格で売り捌いて大儲けすることを考えただろう。
しかし、私の頭の中でアンナが囁いた。
『エリザベートさん…私、知ってます。少しの小麦粉でも、他の安い穀物や芋を混ぜて工夫すれば、栄養があってお腹いっぱいになるパンが作れるんです。村のおばあちゃんに教わりました』
「…なんですって?」
『もしそのパンを安く売ることができたら…たくさんの人が助かるかもしれません』
アンナの提案は私の常識では考えられないものだった。利益を度外視した慈善事業など馬鹿げている。
だが、アンナの記憶の中にある飢えた子供たちの悲しそうな目が、私の脳裏をよぎる。そしてアンナが焼いた素朴だが温かいパンを、人々が笑顔で分け合う光景も。
「…セバス、アストレア商会のパン職人を全員集めなさい。それから領内の安い穀物と芋を可能な限り確保して」
私の指示に商会の幹部たちは度肝を抜かれた。
「お嬢様、正気でございますか!? そんなもの、売れるはずが…」
「黙りなさい。これは命令ですわ」
私はアンナの記憶にあるレシピを元に、パン職人たちに試作を命じた。最初は半信半疑だった職人たちも、出来上がったパンの意外な美味しさとボリュームに驚いていた。
そして私はそのパンを、採算度外視の低価格で領民に提供し始めた。
最初は「悪徳令嬢の気まぐれだ」「何か裏があるに違いない」と訝しんでいた民衆も、実際にパンを手にし、その温かさと優しさに触れるうちに徐々に私を見る目が変わっていった。
アストレア商会の前にはパンを求める人々の長い列ができるようになった。それは、私が今まで目にしてきた富を求めて群がる強欲な人々とは違う、切実な感謝の眼差しだった。
『見てくださいエリザベートさん! みんな喜んでくれてます!』
アンナの嬉しそうな声が響く。
「…ええ、そうみたいね」
胸の中に、今まで感じたことのない温かいものが込み上げてくる。それは金銭では決して得られない満足感だった。
もちろんこの行動は父である侯爵の耳にも入り、厳しく叱責された。
「エリザベート! お前は何を考えているのだ! アストレア家の名誉を汚す気か!」
「お父様、私はただ、民が飢えているのを見過ごせなかっただけですわ。それにこれはアストレア商会の評判を上げる良い機会にもなります」
私は毅然と反論した。以前の私なら父の権威に怯えていただろう。だがアンナの存在が、私に勇気を与えてくれていた。
私の商売のやり方はこれを機に大きく変わり始めた。
従業員の労働条件を見直し、不当な搾取をやめさせた。取引先にも公正な価格を提示し、長期的な信頼関係を築くことを重視した。粗悪品を売りつけることも、強引な契約を迫ることもやめた。
もちろん短期的な利益は減少した。だが不思議と不安はなかった。アンナの素朴な「正しいことをすればきっと良いことがある」という言葉が、私の中で確かなものになりつつあったからだ。
周囲は私の変化に戸惑い、あるいは嘲笑した。「悪徳令嬢が聖女にでもなったつもりか」と。だが私は気にしなかった。私の中のアンナが、いつも私を励ましてくれたから。
『エリザベートさんは、本当は優しい人なんです。私、知ってます』
その言葉が、私の支えだった。
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数年が過ぎた。
私は過去にアストレア商会が不正な手段で陥れた人々や企業に対し、可能な限りの謝罪と補償を行った。それは莫大な費用と時間を要したが、私にとっては必要なことだった。
特にアンナの家族には、アストレア商会の代表としてではなくエリザベート個人として改めて謝罪し、彼らが安定した生活を送れるよう最大限の援助を約束した。アンナの母親は涙を流して私を許し、ルカとミリーは私の援助で再びパン屋を営むことができるようになっていた。彼らが焼くパンは、アンナが焼いていたパンの優しい味がした。
そうした日々の中で、私はアンナの魂が少しずつ軽くなり、満たされていくのを感じていた。彼女の無念は私の行動によって少しずつ癒されていたのだ。
そして、ある晴れた日の午後。私はアンナの墓前に、彼女が好きだった白い花を供えていた。
『エリザベートさん…ありがとう』
アンナの声が、いつになく穏やかに響いた。
『もう、大丈夫です。あなたは、もう一人で正しく歩いていけます。私の願いは、あなたの中で生き続けるから』
その声は徐々に光を帯び、温かい何かに包まれていくような感覚がした。
「アンナ…? いかないで…!」
思わず叫んでいた。あれほど忌み嫌っていたはずの存在。だがいつの間にか、アンナは私にとってかけがえのない友人であり、良心の導き手となっていた。
『さようなら、エリザベートさん。あなたの人生にたくさんの幸せが訪れますように…』
アンナの最後の言葉は優しい子守唄のように心に染み渡り、そしてフッとその存在は消えた。まるで春の陽光に溶ける雪のように。
一人残された私はその場で泣き崩れた。感謝と寂しさと、そしてこれから一人で歩んでいかなければならないという決意が混ざりあった涙だった。
それからさらに数年が経った。
「悪徳令嬢」と呼ばれた私は、もういない。人々は私を「公正なるアストレア」「民を思う若き女侯爵」(父の引退後、私が家督を継いだ)と呼ぶようになった。
アストレア商会は以前のような強引なやり方ではなく、誠実な商売で多くの人々の信頼を得て、かえって以前よりも大きく発展していた。それはアンナが教えてくれた「正しい商いの道」だった。
時折、私は窓辺に立ち、アンナが好きだったパンの香りを思い出す。彼女の優しい声、素朴な笑顔、そして私に教えてくれたたくさんの大切なこと。
アンナ、あなたはもういないけれど、あなたの心は確かに私の中に生きている。
だから私はこれからもこの道を歩き続ける。あなたの温かな光に導かれて。
私の胸の中にはかつての強欲さではなく、誰かのために尽くすことの喜びとささやかな誇りが宿っている。それは金では決して買うことのできない、何よりも尊い宝物だった。