第8話「フロリア視点:あの日、私は彼女に祈った」
──これは、私だけが覚えている記憶。
まだ“聖女”という立場になる前、
私はひとりの孤児だった。
魔力を視る力と、感情の波を受け取る体質。
周囲には理解されず、「おかしな子」と呼ばれた。
ユグナスの孤児院は、優しくも冷たい場所だった。
衣食住は足りていても、誰かと“つながる”感覚がなかった。
私は、よく図書館に逃げた。
魔力封鎖構造の中にいると、感情の波も薄れる。
まるで、自分がただの“人間”になれるような気がして。
ある日、私は棚の隅でしゃがみ込んでいた。
何も悪くないのに、泣いていた。
泣く理由なんて、なかったのに。
そこに、彼女が来た。
足音も気配もないのに、
突然、目の前に座り込んでいた。
「……大丈夫?」
その声に、私は心臓を撃たれたような気がした。
彼女──ユリカは、見たこともないくらい自然な笑顔で、
一冊の本を差し出してきた。
『しあわせのはこ』
魔法でも、神でもない。
ただ一人の女の子が、小さな箱を手に旅するお話。
内容はもう覚えている。
何百回も読み返したから。
だけどあのときの、
“誰かが私の存在をまっすぐ見てくれた”
その感覚だけは、今でも鮮明に覚えている。
彼女は何も聞かず、何も名乗らず、
ただ私の隣にいてくれた。
そのあたたかさだけで、私はこの世界を、
“捨てずにすんだ”。
時は流れ、私は聖女として選ばれた。
厳粛な儀式、魂の観測、神の試練。
私の中には、世界の記憶が流れ込んだ。
その中には、“彼女”の名前もあった。
──ユリカ・サフィール。
中立調整庁の管理官候補。
特殊な魔力波動。記録不可能な魂の振動。
“女神の器”という分類。
その名に、私は震えた。
あのときの彼女が、
そんな存在だったなんて。
けれど、誰よりも誰かを想い、
誰よりも自然に誰かに寄り添う、
その本質は何も変わっていなかった。
彼女は、“救う側”の人間だ。
だけど私は。
──彼女を、救いたいと思った。
今、私はユリカさんのそばにいる。
誰よりも距離を保って、
誰よりも気配を消して。
私の行動が、彼女の重荷になると分かっていても、
それでも近くにいたい。
今日、図書館に来たときもそうだった。
あの棚を見つめる彼女の背中が、
かつてと同じように揺れていて。
声をかけるのを、ためらってしまった。
けれど──
「ねえ、フロリア。次は、あんたが決めていいよ。どこ行きたい?」
その言葉に、心がざわりと揺れた。
まるであのとき、
「……大丈夫?」
と微笑んでくれた彼女が、
時間を越えて私に問いかけてきた気がして。
だから私は、答えた。
「では、“思い出の図書館”に」
それがどんなに遠回りでも、
彼女が何かを思い出してくれるなら。
私は、あの記憶に手を伸ばし続ける。
過去の記録。
聖女選定試験──候補者フロリア。
備考欄には、こうあった。
『魂の執着対象:不明(推定、観測外因子)』
その不明因子こそが、
私の、すべてだった。
今日も私は、
彼女の背中に向かって祈る。
「……今日も、あなたの祈りを、私は覚えています」