第11話「夢の中で本を開いた──そこには“わたしの名前”があった」
──また、夢だ。
空気が静かすぎて、世界が止まったようだった。
私は、一人で書架の前に立っている。
夢の中のはずなのに、足元の冷たさ、紙の手触り、そして何より、本の匂いまでがはっきりしている。
(ここ……知ってる)
それは、図書館でも、学校でもない。もっと個人的で、秘密の空間。
そして目の前にあったのは、あの本だった。
『しあわせのはこ』
タイトルを見るだけで、胸の奥がざわめいた。
懐かしさ。あたたかさ。そして、何よりも強い、さみしさ。
私は手を伸ばし、ページをめくる。
最初のページ、次のページ──文字が霞んでいる。読めない。だけど、絵ははっきりしていた。
白い箱。空。風。笑っている女の子。
それは私だった。
──と思った。
ページの端に、何か書かれている。
にじんだインクで、幼い筆跡。
『このほんは、ユリカちゃんのものです』
(……私の、名前)
胸が痛いほど締めつけられた。
その瞬間、周囲の光景が揺らぐ。
本棚が崩れ、空が歪み、ページが宙を舞う。
そして、そこに“誰か”がいた。
白いワンピース。
逆光で顔が見えない。
だけど──私は、知っていた。
「忘れたままでいいの?」
声がする。
「その記憶は、あなたを壊すかもしれない」
「でも、それがあなたを救ったものでもある」
──どこかで、聞いたことのある声だった。
でも、思い出せない。
思い出したくないのか、思い出せないのか、自分でもわからなかった。
私はただ、本を抱きしめた。
夢の中で、それだけが現実のように思えた。
朝。
目が覚めたとき、頬が少しだけ濡れていた。
夢の内容は、すぐに薄れていった。
でも、胸の痛みと、ぬくもりだけは、しっかりと残っていた。
ベッドの脇に誰かが座っていた。
「……また、うなされていましたね」
「フロリア……?」
「すみません、無断で入って。でも、あなたの気配が不安定で」
「……夢を見てた」
私は枕を抱きしめたまま、ぽつりと呟いた。
「誰かと一緒に、本を読んでた。白くて、きれいで、優しい声の……」
フロリアは微笑んだ。
「……それは、わたしです」
「え?」
「昔、あなたが泣いていた場所で、私はあなたに声をかけた。
何も言わずに本を渡して、それから毎日通ったんです」
「……私、覚えてない」
「それでいいんです。思い出すことは、義務ではありませんから」
でも。
私は、その“本を差し出してくれた誰か”の手のぬくもりを、今も覚えていた。
「もう一度……読めるかな。あの本」
「ええ、きっと読めますよ。あなたが、そう願うなら」
カーテンの隙間から朝の光が差し込んだ。
夢の続きを、私は現実で読もうとしていた。