第3話 水鏡の戦場(3)
「イグレインどの」
開け放した戸口に、疲労のためか声を嗄らしたニケタスが立っていた。
「イグレインどの、逃げてくれ」
あれから五日が過ぎた。戦場から単騎で飛ばしてきたニケタスは、部屋には入ろうとせず、戸口から寝台に横たわるイグレインに話しかける。
「われらは敗走した。もうここへは戻らない。わが軍は撤収し、本国へ召還される」
「……将軍は、いかがなさいました」
帳を下ろしたままの寝台から、イグレインが訊ねる。
「閣下はご無事だ。しかし……」
ニケタスは一瞬、言い淀み、
「今回の敗退と、パナケア征服失敗の責を負うため、皇帝陛下の御前で裁かれることとなる」
「命をもって、ということでしょうか」
「いや。庶子とはいえ、かりにも皇帝陛下の皇子だ。死罪は免れるだろう。だが……相当の処分は、覚悟しなければならない」
――ルシアスが失敗するようなことがあれば、決して小さくはない勢力が徹底して追い落としを図ってくる。
「権力の中枢に、敵がいるのですね」
「……そうだ」
絶望を舌に乗せたようなニケタスの声。
「皇帝陛下のご不興を買ったとしても、閣下ならすぐに挽回できる。だが、皇妃殿下や皇太子殿下たちの悪意と讒言がある。閣下に恥辱を与えるために、公開で厳しい刑を処し、追放は免れないだろう」
イグレインの心が、音を立ててきしんだ。
「閣下から、あなたを早急に逃がすよう命じられた。あなたの身に危険がおよぶかもしれないので。……閣下の敗北は、あなたが原因だと騒ぐ者もいる」
ニケタスの声音が低くなる。
「邪教の魔女にたぶらかされ、閣下は冷静なご判断を失ったのだと」
(――ああ)
イグレインは顔を覆い、嘆息する。
「あなたは、すぐにでもここを出たほうがいい。わたしは、あなたが閣下をたぶらかす魔女だとは思わないが……」
戸口にいるニケタスの気配が、揺らぐ。
「閣下があなたに出逢わなければよかったと、思わざるを得ない」
「当然のお気持ちです」
寝台から降り、帳を開ける。
泥にまみれ、疲れ果てた軍装のままのニケタス。頭から流れた血が、乾いて髪を固めている。
「ニケタスどの。あなたは以前、将軍をお守りしたいとおっしゃっていました。いまも、そのお気持ちに変わりはありませんか」
「当然だ」
怒ったようにニケタスは答える。心の底からの思い。
イグレインは初老の賢人に歩み寄る。
「では将軍が刑を受け、追放されたなら、再びパナケアへ送って差し上げてください」
「なんだと? いや、しかし……」
困惑をあらわに、ニケタスは首を振る。
「命は助かるとしても、どんな刑に処せられるかは、わからない。もしかしたら、二度とあなたと語らい、触れ合うことはできないかもしれない」
不安そうなニケタスに、イグレインは強いまなざしを向けた。
「たとえ、どのような姿形になったとしても――命があるのなら、必ずこのパナケアへ」