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第3話 水鏡の戦場(2)

 〈暁の丘〉から〈月の沈む谷〉までは、片道で三日強かかる。


 イグレインはひとり残された塔で、落ち着かない心持ちのまま、待っていた。

 ホルタリア軍の戦力ならば、パナケアの一部族(クラン)を征服するなど、大した労でもないだろう。

 しかしイグレインは、ひどく胸騒ぎがしていた。


(〈月の沈む谷〉は、簡単ではないかもしれない)


 パナケア最大の部族(クラン)〈薊の原〉に次ぐ有力な部族(クラン)だが、好戦的で残忍なことは、パナケア随一だ。領土が近い〈清らかな泉〉は、友好関係を継続するために贈り物をし、腐心していたものだ。


 ルシアスがどの程度、敵の情報を得ているかは知らない。パナケア人の情報提供者も使っているとは思うのだが。


(ひと言、伝えておいたほうがよかったかもしれない……)


 そう考え、はっとする。


(なに、わたし……同胞の不利な情報を、敵に伝えるというの)


 自分でも、どうしてしまったのか、わからない。いったい、どちらの心配をしているのだろうか。


 心乱れたまま、三日が過ぎた。


 四日目の朝、イグレインは沐浴用の大盥を部屋の中央に置き、井戸から汲み上げたばかりの水で満たした。

 水面が鎮まるのを待ちながら、心を静謐にさせる。


(女神アルテニア――)


 女神の名を心で唱え、水鏡を覗き込む。


「ルシアス・マグナス・ホルタリウス」


 目指す人物の名を呼ぶ。

 すると、水面が揺らぎ、光が射し、浮かび上がった影が形を作り始める。そして、映るはずのない光景が、鮮明に現れた。


(開戦している……!)


 ホルタリアの歩兵に飛びかかる、〈月の沈む谷〉の戦士たち。裸形の上半身に染料で独特の文様を描き、鼻から上の部分に動物の皮や骨で作った不気味な仮面を被っている。

 その姿は、まるで闇夜に跳梁する悪鬼のようだった。


(将軍は)


 景色が動く。兵士ひとりひとりの顔が見える距離から、しだいに高く離れ、戦場を俯瞰する状態となった。


(ここは……〈清らかな泉〉!)


 見覚えのある風景は、間違いなくイグレインの故郷、〈清らかな泉〉の土地だった。進軍の途中に奇襲を受けたのか、それとも後退を余儀なくされたのか。どちらにしても、戦場はじりじりと女神アルテニアの聖地に近づいていた。


「やめて、来ないで」


 イグレインは思わず口に出す。


「もう充分でしょう。あれだけ踏み荒らした聖地を、また血で穢すというの!」


 悲鳴のように叫んだそのとき、彼の姿が目に入った。


「将軍……」


 最前列なのか、最後方なのかはわからないが、戦場の端、聖地を背にした丘の上に、騎馬の将が剣を振るって戦っていた。

 目的の人物を見留めると、俯瞰が下がり、はっきりと顔がわかる距離に定まった。


(……なにか、おかしい)


 ルシアスの様子が、どこかおかしい。怪我を負っているわけではなさそうだが、なにを気にしているのか、焦りが見える。

 戦のことなどまったく知らないイグレインでさえ、引っかかるような違和感が、そこにはあった。


(身動きが取れないような感じがするけど……)


 前から襲ってくる異形の戦士たちを切り伏せながら、ルシアスはなぜか背後を気にしているのだ。


「まさか……」


 イグレインは悟る。ルシアスの不自由な動き方の原因。


「聖地を――守ろうとしているの」


 間違いない。ルシアスは部下とともに、敵が聖地に侵入するのを防いでいるのだ。

 イグレインの魂が、もう二度と穢されないように。


「そんな……将軍、どうして」


 素人目にもわかる。兵力でも装備でも圧倒的に有利なはずのホルタリア軍が、しだいに劣勢となりつつある。


 ルシアスの思惑を知ってか知らずか、〈月の沈む谷〉の戦士たちは、明らかにホルタリア兵を聖地へ追い込もうとしている。いま総司令官のなすべきことは、ひとまず軍を後退させて態勢を立て直すことだろう。

 聖地を戦場に巻き込まないために、ルシアスは自らを追い詰めようとしているのだ。


「将軍……いけない」


 声がふるえる。イグレインは大盥の縁に取りすがり、苦しそうなルシアスの顔を見つめた。

 そのとき、光景が急激に遠ざかり、また俯瞰の状態となる。なにごとかと訝しむイグレインの目に、それは映った。


 聖地の向こう、〈月の沈む谷〉の攻撃と挟み込むようにして、数十の戦士が矢を射かけながら現れた。彼らは深緑に染めた革鎧を身に着けている。


「〈蒼い森〉の生き残りの戦士……」


 〈月の沈む谷〉と〈蒼い森〉のふたつの部族(クラン)が手を結び、この〈清らかな泉〉の聖地でホルタリア軍を挟み撃ちにする企みだったのだ。


「だめ……将軍、このままでは」


 無防備な背後から奇襲を受けては、なすすべもない。馬首を返し、また戻し、動きを封じられた騎馬兵団が瓦解するのも時間の問題だった。


 俯瞰するイグレインには、ルシアスの表情は見えない。だが、彼の驚愕は、自分のもののようにわかる。

 恋という、愚かで些細な気の迷いから、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまったのだ。


「お願い、もう、やめて……!」


 引きちぎられるような胸の痛みが、イグレインを襲う。心が乱れ、それが水鏡の水面を波立たせ、光景が――消えた。

 暗い水に映るのは、覗き込むイグレインの顔。眉根を寄せ、唇を噛みしめ、嗚咽をこらえる。


(――醜い顔)


 ぽつり、と水滴がひとつ。波紋が静かにひろがる。ひとつの波紋が消える前に、またひとつ、ひとつ。やがて、雨のように降り注ぐ、涙。


(醜い顔、愚かな女)


 気づかなかった。こんなになるまで。


(あのひとを、愛している)


 ようやくイグレインは自覚した。敵として憎むことで心の奥底におし沈めて、気づかないふりをしていた、その想いを。


(もう、あのひとを憎むことはできない)


 女神アルテニアのため、民のためだと思って、虜囚の身に甘んじてきた。守るべきものがなかったら、迷わず死を選ぶ――そう信じていた。

 その気持ちは偽りではない。でも、本当は。


(あのひとの傍に、いたかった。あの美しい黒い瞳に、ずっと見つめていてほしかった)


 暗い水面を睨むように見つめながら、イグレインは涙を流し続ける。


 手が届かなくなってから思い知らされても、なんの役にも立ちはしないのに。

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