第3話 水鏡の戦場(1)
〈暁の丘〉に戻ってから、ルシアスは最後の戦――パナケア最後の部族〈月の沈む谷〉の攻略戦の準備で忙しく、イグレインの部屋を訪れても、ろくに話もできずに退室することが多かった。扉越しに顔を覗かせただけという日もあった。
陣営全体が慌しく、緊迫感を増し始める。イグレインは外出を控え、塔の自室から外の様子を眺めていた。
戻って五日目の夜、まどろみの入り口にいたイグレインは、ある音を聞いて目を覚ました。
(弦楽器? 不思議な旋律……)
弦が紡ぎだすもの悲しい音色が、ゆるゆると部屋に流れ込んできている。
イグレインは寝台から降り、窓の外を見た。旋律は聞こえるが、演奏者の姿は見えない。気になって階下へ降り、塔から出た。
(裏手のほうだ)
音をたどりながら、自室の窓からは見えない塔の裏側にまわってみる。
降りしきるような月明かりの下、人の手で造られた池の端に、白い長衣の男が座っていた。
「――イグレイン」
男はルシアスだった。腕と立膝の間に、精緻な細工の竪琴がある。
「まさか、あなたが奏でていらしたの」
「まさかとは、ひどいな。それほど意外か」
イグレインの正直な感想に、ルシアスは笑う。
「真夜中の音楽に誘われてくるのは、魔物だけだと思っていた。おまえを誘いだせるのなら、もっと早く奏でてみればよかったな」
冗談めかして、ルシアスは弦を弾く。
「こちらへ来い」
呼ばれて、イグレインは歩み寄る。ルシアスは近くを指差し、座るよう促した。
ルシアスの示した場所より、少しだけ離れた位置に腰を下ろす。ルシアスはふっと笑い、竪琴を奏で始めた。
哀愁を帯びた、深みのある旋律。ゆるやかに始まり、次第に早くなる。まるで、とめどなく流れる涙が、嗚咽となり、慟哭へと変わるように。
(なんて悲しい……)
悲痛ともいえる旋律に、心が波立ち、乱される。目を閉じると、月の残像に重なって、父親の最期の姿が浮かんできた。
やがて音色は穏やかさを取り戻し、ゆっくりと、眠りにつくように終わった。
イグレインは目を開ける。
竪琴を抱え、うつむくルシアスがいた。
「母から譲り受けたものだ。母は商家の娘だが、音楽の才があった。それで、皇帝陛下に見初められた」
指先で軽く弦を弾く。
「夕刻、伝令が来た。母が亡くなった」
イグレインは驚いてまばたく。
「ずっと病床にいたのだ。少しずつ衰弱していく病だった。医者に見せても、原因は不明だった」
それを聞いた瞬間、嫌な感じがした。薬草や鉱物の知識を持つイグレインは、医者にも見つからないよう人を衰弱死させる毒物の使い方を知っている。
ルシアスはその立場から、敵が多い。彼を敵視する者は、神に背いて皇帝の寵愛を受けた彼の母親こそが、すべての元凶だと思うだろう。ルシアスを追い詰めるのに、まず周辺から狭めていくのは有効な手段かもしれない。
「なにを考えている?」
不意に問われ、イグレインははっと我に帰る。
「いえ……なんでもありません」
「母の死を、不審に思うか」
イグレインは、ルシアスを見つめた。ルシアスの微妙な笑み。
「わたしとて、そう鈍感ではない。母の病状には作為を感じる。なんとかしようとしたこともあるのだが……母自身に止められた」
「お母さまに?」
「ああ。母は、自分の身に起こっていることを、すべて承知していた。その上で、受け入れる覚悟だった。わたしたち母子に悪意を持つ者がいる。それも、権力の中枢に。この件を騒ぎ立てれば、わたしにも良くないことが起こると心配した母は、なにもするなと厳しく止めた。彼女は、息子が皇子として、将軍として、確かな地位を確立してくれることを願っていたのだ」
天を仰いだルシアスは、長い溜め息をつく。
「わたしは、自分の地位を賭けてもいいと思ったのだが」
白い月光に照らし出されたのは、寂しそうなひとりの青年の顔だった。
「……お母さまは、お気の毒です」
イグレインは悔やみの言葉を述べる。それくらいしかできなかった。
「ありがとう」
礼を返したルシアスは、そのままイグレインを見つめる。やわらかく開かれた微笑。
途端にイグレインは落ち着かなくなる。
「おまえは母親似か?」
唐突な問いに、イグレインは肩をふるわせる。
「……そう言われておりました」
「美しい女性だったのだな」
長く素直な黄金の髪、女神アルテニアの泉のような澄んだ青の瞳。母系で繋いできたイグレインの一族の女は、みな同じ姿を受け継いでいる。金の髪、青い瞳が一般的なパナケアの民の中でも、特に印象的な容姿だった。
「すまないことをした」
ルシアスが低く言った。
「おまえの父親を殺し、部族を滅ぼし、幸福で平穏な日常を奪った。詫びてすむことではないのは、わかっている。だが……」
黒い真摯なまなざしが、真正面からイグレインを捕らえている。
「おまえが笑顔を取り戻せる方法があるのなら、教えて欲しい。自分で奪っておきながら、そんなことを言える立場ではないが」
(どうして、この人は、こんな目をするの)
ルシアスのまなざしを受け止めながら、イグレインはなぜか切なくなる。
(憎い敵の男でしょう。もっと非道で、もっと残酷な顔をしているはずじゃない。どうしてこんな……)
「――イグレイン」
「もう戻ります。お休みなさい」
視線と言葉を遮るように、顔を逸らして立ち上がる。
その手を、ルシアスが捕らえた。
「……!」
イグレインは身体をこわばらせてルシアスを振り返る。
怖いほどに真剣な表情が、そこにあった。
「……離してください」
「イグレイン」
「離して!」
思わず語気が強くなる。すると、つかんでいた指が、ゆるんだ。
手を素早く引き抜き、イグレインは逃げるように塔へ戻った。
翌日の夜、ルシアスがイグレインを訪れた。
「明朝の夜明け前に出陣する」
久しぶりに淹れた香草茶を味わいながら、ルシアスが告げる。
「……そうですか」
対するイグレインは、それだけ答える。無関心なわけではない。ただ、ほかに答えようがなかった。
(〈月の沈む谷〉が滅ぼされたら、パナケアは完全にホルタリアの属州となる)
故郷が故郷でなくなる。集落は解体され、新たな町として整備され、かつてのパナケアは姿を消してしまうだろう。
そしてホルタリア本国から、司祭が派遣される。邪教と見なされたパナケアの神々は封印され、馴染みのない唯一絶対のホルタリアの神を祀らなければならない。
(そして、わたしは)
ルシアスの想いに向き合うこともできず、かといって逃れることもできないまま、イグレインは曖昧な自分の心をもてあましている。
(わたしは……どうすればいい)
ふと、背後に気配を感じた。振り返ろうとした刹那。
「……!」
後ろから抱きすくめる腕。有無を言わせぬ強さと、包み込むような優しさと。
「将軍……」
「少しだけだ。許せ」
頭におし当てられる頬の感触。髪に降りかかる吐息の熱。
イグレインは混乱し、どうすべきかわからず、動けない。
「イグレイン」
耳に流れ込む、溜め息のような呼び声。
「憎しみでも、恨みでもいい。おまえの心が欲しい。戦が終わり、わたしが戻ってきたら、おまえのありのままの感情をぶつけてくれ。いまは、それだけでいい」
――心が溶けるまで、待つ。
イグレインの金の髪に、ルシアスの吐息がからみあう。指先がかすかにしびれるのを、イグレインは感じた。
気がつくと、扉は閉ざされ、熱の余韻だけがイグレインを抱きしめていた。