第2話 聖地の傷痕(4)
暖かな火の熱、煙の匂い、小枝のはぜる音――。
「気がついたか」
覚えのある匂いと音に目を開けると、小さな焚き火を挟んで、ルシアスが見つめていた。
火の匂いを運ぶ空気には、草と水の濃い匂いが重なっている。見回すと、夜の森の中だった。来るときに通った〈蒼い森〉の中だろう。
「意識のない間に運ばせてもらった。悪く思うな」
どうやら帰途にあるらしい。鈍い頭痛を感じながら、イグレインはゆっくりと起き上がる。草の上に毛皮の敷物を敷き、横たえられていたようだ。
夏とはいえ、夜の森は肌寒い。肩から薄い毛織物の外衣がすべり落ちた。
「……」
傍らに人の気配を感じると、水の入った杯が差し出された。護衛として同行していた兵士が無言でひざまずいている。
「ただの水だ。毒も薬も入っていない」
ルシアスが口の端に笑みを浮かべる。
杯を受け取ったイグレインは、躊躇もなく口をつける。甘味も苦味もない、魔力のかけらも感じないただの水だった。
「空腹だろう。――ゴラン」
ルシアスに呼ばれた兵士は、火にかけてあった鍋の蓋を取り、煮てあった大麦の粥を椀に盛って寄越した。
「食べたら、また休め。明日の朝、出発前に起こす」
ルシアスは枯れ枝を折って火にくべる。その彼に、ゴランと呼ばれた部下の兵士は一礼すると、自分の外衣を持って少し離れた木の根元に控えた。
イグレインは手の中の椀をじっと見つめる。木の椀を通して伝わる粥の熱が、手のひらに沁みていく。
昼間、心にわだかまっていたことを吐き出したためか、気持ちは落ち着いていた。むしろ少し、放心していたかもしれない。
「まだ、わたくしを連れ戻すのですか……なぜ」
呟きのようなイグレインの問いに、ルシアスは炎を見ていた目を上げる。
「なぜ、とは」
「心に抱いていたことを、お伝えしました。すべて本心です」
ルシアスとホルタリアを許さないと言ったこと。心を開かないと叫んだこと。
「敵意があると申し上げました。それでもまだ、わたくしを手元に置いておかれるのですか」
「気にしてはいない。おまえの怒りは正当だ」
いつもと変わらないルシアスの口調。
「われわれは侵略軍だ。領土を拡張するため、武力をもって他国を攻め滅ぼす。大義名分はなんでもいい。比類なき大帝国となって世界を統一し、秩序と平和をもたらすため。あるいは、唯一絶対の神の祝福を、異教邪教の蛮族に与えてやるため。言い訳はいくらでも出てくる」
「あなたは、それを良いことだとは思っていらっしゃらない。なのに、侵略軍を率いて、こんな僻地の島国にまで遠征なさっている」
「わたしはホルタリア皇帝に仕える軍人だ。皇帝陛下の命令に従うのが役目だ」
「皇子でもあるから?」
「そうだ。――たとえ、神に背いた存在であっても」
卑下するでも自嘲するでもなく、ルシアスは日常の続きのように語る。
「おしゃべりニケタスから聞いているのだろう? わたしが庶子であることを」
屈託もなさそうに訊ねられ、イグレインは戸惑いながらも頷いた。
「……パナケアでは、複数の妻を持つ族長もおります。異腹の兄弟は、それほどめずらしくはありません」
「わたしもパナケアに生まれたかった」
冗談とも本気ともつかないルシアスの告白。イグレインと目が合うと、笑うように目を細める。イグレインのほうが視線を逸らした。
「……ホルタリア皇帝とは、どのような方ですか」
「尊大で傲慢、冷酷で強欲、美食家で漁色家」
父親にして主君を評するにしては、あまりの言葉の列挙に、イグレインは呆れる。
「そんな方が、皇帝なのですか」
「そうだ。少なくとも尊敬に値する人物ではないな。強いて言うなら、あの尋常ではない支配欲には、感服させられなくもない。彼はホルタリアを、史上どこにもなかった世界を支配する大帝国にしたいと考えている」
「たかが人間の身で、世界を支配したいだなんて。あなたのお父上は、本当に傲慢な方ですね」
「同感だな」
イグレインの暴言にも、ルシアスは笑いで返した。
快活で誠実、果敢にして思慮深い――仇敵ではあるが、その人物としては、イグレインもルシアスを認めざるを得ない。
――あの方こそ、王者としてふさわしい。
ニケタスはルシアスをそう評した。そうかもしれない、とイグレインも同意する。
(もし、この人がホルタリア皇帝となったら、もっと違う国になるかもしれない)
だが、それは叶わぬ夢だろう。
正当な血筋を主張し権力を振りかざす異母兄たちより、はるかに優れた才能を持っていながら、決して玉座には届かない。それどころか、いつ何時、悪意によって暗い渦に突き落されるかわからない。自分自身には、なんの罪もないのに。
(そんな宿命を背負って生きる気持ちとは、いったい……)
炎に照らし出された、端整な面貌。パナケアにはいない、闇のように黒い髪と黒い瞳。揺らめく火を映していたその双眸が、ふとイグレインを捕らえた。
今度は、逸らせなかった。
焚き火を挟んで、見つめあう。言葉はない。燃える枝の爆ぜる音が、やけに大きく耳に響く。
イグレインは自分の鼓動を意識した。いつもとは違う律動で動き始めている。慣れ親しんだ自分の身体なのに、なぜか制御できない。焦りが困惑となり、ますます胸の奥が波立つ。
頬が熱いのは、炎にあぶられたせいだろうか?
「イグレイン」
名を呼ばれ、思わず肩が跳ねる。
夜を照らす炎にも似た、熱を帯びた瞳。真正面から、ただイグレインだけを映している。小細工も嘘もなく、真っ直ぐに射抜いてくる、強く鮮烈な輝き。
引き寄せられ、そのまま吸い込まれてしまいそうな感覚が、イグレインを襲った。息苦しい、あの感覚――だが、不快ではない。
(わたしは……)
「――パナケアを平定したら、わたしがこの地の総督となる」
視線を繋いだまま、ルシアスが切り出す。
「占領地を治めるのに、最も有効な方法はなにか、わかるか」
イグレインは首を振る。
「その土地の有力な血を受け継ぐ妻を娶ることだ」
「――!」
地面に敷いた敷物の上で、イグレインは無意識にこぶしを握る。
「誤解するな。わたしにとって、妻となる女は、誰でもいいというわけではない」
緊張したイグレインの態度をどう受け取ったのか、ルシアスは力を込めて言った。
「初めておまえに逢った瞬間、見つけた、と思った。ずっと探していた、ただひとつの宝石……ただひとつ、本当に欲しいと思うものを、ようやく見出したのだと確信した」
ためらいなく告白するルシアスの直截さに、イグレインは動揺する。
「帝国軍の総司令官ともあろう方が、たかが女ひとりを探し求めていたと、おっしゃるのですか」
「ずっとなにかを追い求めていたが、それがなんであるかはわからなかった。おまえと出逢うまでは」
「どうして、わたくしなのです」
「見ただけで、強く心惹かれた。理由はわからない。必要だとも思わない。――おまえという存在を、心から欲しいと思った。それだけだ」
イグレインの唇がふるえる。なにかを言いたいのに、言い出せない。なにを言いたいのかさえ、わからないのだが。
なにか言わないと、ルシアスの呪文のような言葉に絡め取られてしまう。捕らえられ、縛られ、動けなくなってしまう。そんな焦りが、イグレインをますます混乱させる。
「そんな顔をするな」
ふっと短く息をついて、ルシアスが苦笑する。熱く重い空気が、ふわりと軽くなった。
「おまえが、わたしを憎んでいるのは、充分承知している。それだけのことをしたのだから、当然だ」
イグレインは黙ってルシアスを見つめる。思いは混沌として、複雑だった。いま自分は、どんな表情をしているのだろう。
「無理強いはしない。おまえの心が溶けるまで待とう。いまはこうして、おまえの姿を見て、言葉を交わすことができれば、それでいい。……だから、傍にいてくれ」
火勢が衰えた焚き火に、ルシアスは新しい枯れ枝を投げ込む。ぱっと火花が散って、炎は再び燃え上がった。
「もう休め。日の出の前に出発する」
促され、イグレインは敷物の上に横たわる。焚き火に背を向けて毛織物の外衣を引き上げ、潜るように被った。
背中に感じる、ルシアスの気配。隠れるように控えていた部下のゴランになにか指示を出し、彼も横になったようだ。
静けさが舞い降りる。夜の森のどこからか聞こえる、眠らない生き物の声。ときおり吹き抜ける風の小さなうなり、木々のざわめき。ぱちぱちと爆ぜる焚き火の音。
横になり、目を閉じても、イグレインは寝つけなかった。
〈清らかな泉〉は完全に滅びた。誰もいない。イグレインは帰る場所を失った。
喪失の痛みはある。だが、予測はしていた。集落に戻ったときに、聖地を臨んだときに感じた胸騒ぎは、ただひとりになってしまったという恐れの表れだった。
(わたしは、どこへ向かえばいい?)
――傍にいてくれ。
ルシアスの言葉が蘇る。鮮やかに、耳の奥に残っている。
差し伸べられているルシアスの手。それは、部族を滅ぼし、故郷を焼き、聖地を穢した、憎い侵略者の手。
振りほどいて、逃れればいい。できないことはないはずだ。
(いっそ死を選べたら、楽かもしれないのに)
それだけはできない。女神アルテニアへの信仰を受け継ぐ、ただひとりの存在として、生きていかなければならない。失った民のためにも。
(ただひとりの、わたし……)
――ただひとつ、本当に欲しいもの。
真っ直ぐに見つめてくる、美しい黒い瞳。イグレインの心を苛む、強い輝き。
女神アルテニアの泉のように、澄み渡って、あふれるような想いが見えてしまうから。
(どうすればいいの……教えて、アルテニア)
閉じた目蓋に力を込めて、イグレインは内なる声を探そうとした。