第2話 聖地の傷痕(3)
翌日の早朝、イグレインは〈清らかな泉〉の地へ赴いた。
ホルタリア軍が築こうとしている町の範囲から出ると、景色は一変する。
夏草が大地を覆っている。涼風が吹き抜け、青草の爽やかな匂いと、湿った土の匂いが、イグレインの鼻孔をくすぐる。以前と変わらないパナケアの空気の中、イグレインは深呼吸した。
ただ以前と違うのは、ところどころに戦で荒れた大地がひろがり、自然のままの野原に傷跡のように石畳の道が敷かれていることだろう。
(パナケアが、確実に作り変えられていく)
傷跡をつけられたのが自分の身体であるように、イグレインは肌の上に痛みを感じた。
感傷を振り払い、並んで乗馬する同行者をちらと見る。
ルシアスがつけた部下は、大柄で剛直そうな兵士で、驚くほど寡黙だった。あえて会話したくないイグレインにとっては、ありがたかった。
ルシアスのことだから、意図してそういう部下を選んだのかもしれない。
(よく……見ている)
ルシアスのさりげない心配りは、こんなふうにして部下にも注がれているのだろう。
素直に喜べないイグレインは、溜め息をつくしかなかった。
道で行き交う人影はほとんどない。滅ぼされた〈蒼い森〉の土地でさえ、部族の生き残りの姿はなかった。
(まるで、世界が滅びたよう)
未知の土地を旅するような心細さを覚えながら二昼夜。見覚えのある景色に至った。
「……女神アルテニアの泉」
最初に見つけた小さな泉は、ほとんど水溜り程度のものだった。それでもイグレインの胸はときめいた。すぐさま馬から降り、水に手を浸す。
夏でも冷たい水が、指先や手のひらから浸透する。思わず唇がほころんだ。
このあたりの泉のほとんどは、戦の流血と汚泥とで穢されてしまった。だが、いまイグレインが両手を浸している水は、ほとんど濁りがない。
――浄化され始めている。
(女神アルテニアは、滅んでいない)
イグレインは確信し、同行の兵士に声をかけた。
「ここからは、わたくしひとりで行きます。あなたはどこかで待っていていただけますか」
朴訥な兵士は馬上から一礼すると、イグレインの乗馬を連れてその場を去った。
イグレインはひとり歩き始める。かつての故郷、生まれ育った集落へ。
「……ひどい」
真っ黒に燻され、崩れ落ちた至聖所の廃墟の前で立ち尽くす。
集落は、破壊されたままで放置されていた。積極的な建て直しで目覚しく変わりつつある〈暁の丘〉とは、まったく対照的だった。
このあたりは沼沢地帯のため、冷涼で湿気が多く、靄や霧に覆われることが少なくない。その気候が、温暖で乾燥しがちといわれる大陸西部のホルタリアの人間には、気に入らないのかもしれない。
黒焦げの石の土台をそっと撫でる。ざらりとした、湿った感触。そこに、あのときの炎の熱さは感じられない。
目を閉じれば、鮮明に蘇る、記憶。立ちはだかるホルタリア兵、鈍く光る槍、炎、流血、最期に天を仰ぐ、父の顔――。
切るように頭を振って、イグレインは現実に戻る。生々しい幻影を払い落して、立ち上がった。
「……」
辺りに人の気配はまったくない。
「誰か……いないの」
呼びかけながら、瓦礫の集落を探し回る。部族の民は全員見知っている。しかし、外の様子も確認できないまま捕らわれ、連れ出されたイグレインには、誰が生き残っているのかわからない。
「誰か、いるなら返事をして」
思いついた名前を次から次へと呼んでみるが、答えはなかった。
(どういうことなの)
生き残った民は、どこへ行ってしまったのか。
胸騒ぎを覚えながら、イグレインは集落の北を目指して歩いた。
ゆるやかな丘を登り、反対側の一帯を臨む。
碧く澄んだいくつもの穏やかな水面が、めずらしく晴れた青空を映して輝いている。微風が流れると、無数の光の粒がはじけるようにきらめき、目を眩ませる。
〈清らかな泉〉の土地の最北、ひときわ透明で冷たい泉が点在するこの一帯は、最も神聖な女神アルテニアの聖地だった。すべての泉に女神アルテニアの加護があるが、中でも最も大きな泉には、女神アルテニアの神性が宿る。
ここに来れば、逃れて暮らす民がいるかと思ったが、誰もいなかった。
「……どうして」
イグレインの不安が膨張する。不快で黒い闇が、ざわざわと身内を侵食し始める。
もう一度、集落に戻って探してみようと、振り返った、そのとき。
「――!」
丘の上、忘れ物のように一本だけ立つオークの木の下に、いるはずのない人間が待っていた。
「将軍……なぜ」
立ちすくむイグレインに、ルシアスが歩み寄ってくる。短衣軽装の平服だが、剣は帯びていた。
「なぜあなたが、ここにいらっしゃるの」
「……もう、わかっただろう」
曇天のような暗いまなざし。重い口調は、苦痛をこらえているかのようだ。
「なにが、ですか」
「おまえの民は、誰もいない。〈清らかな泉〉の生き残りは、おまえだけだ」
殴られたような衝撃が、イグレインを襲った。
「どうして……」
「おまえを捕らえた後、部族の者たちがおまえを奪還しようとして、野営地を襲撃した。こちらはそれを迎え撃ち……殲滅した」
ぐらり、と足場がゆがむ。湿地に足を取られたような感覚。まちがいなく大地を踏みしめているはずなのに。
ルシアスは苦しそうに眉根を寄せ、イグレインの背後、聖地の泉を指差す。
「残った女子供は、男たちの死に絶望し、入水したようだ」
悲鳴が出そうになり、とっさに口を両手で覆う。悲鳴は出ない。湿った空気の塊を飲み込んで、喉がふさがってしまったのだ。
(わたしだけ、生き残っている……)
〈清らかな泉〉は、正真正銘、滅亡したというのか。このパナケアから、世界から、消滅してしまったというのか――。
「……隠していたのね」
うつろな声。自分が発したとは思えないほど、遠くから聞こえる声。
「ああ、隠していた」
答えは明瞭だった。
「いつかは、おまえに話さなければならないと思っていた。だが口で言っただけで、おまえが素直に信じるはずがない。こうしてここに来て、自分の目で確かめればわかるだろうと……残酷だが、それが一番いいと思った」
イグレインは振り返り、聖なる女神アルテニアの泉を見た。
傾きかけた日の光が、細波にさらわれて壊れ、いくつもの光のかけらが散った。
(助けられなかった、誰ひとり)
身体の芯から、突き上げてくる、苦い熱。胸を焼き、喉を焦がし、瞳の奥からあふれ出る。
嗚咽もない、ただ涙だけが、とめどなく流れた。
「イグレイン」
ルシアスの声が聞こえる。気遣いと優しさに満ちた、忌まわしい声。
「降伏するよう、何度も伝えたのだ。抵抗を止めさえすれば、部族としての生活を保障すると約束した。女子供に暴力がおよばないよう、保護するつもりでもいた。だが、交渉の余地は皆無だった。おまえの部族は、最期には自ら滅びることを選んだのだ」
「……自ら、ですって」
忌まわしい声が、呪いの言葉を告げる。イグレインは聞き咎めた。
「そう仕向けたのは誰? 長い時間をかけて築き上げてきた平穏を、血まみれの足で踏みにじったのは、誰だと言うの!」
すべての熱が爆発した。大きく揺らぎ始めた感情のうねりを、イグレインは抑えることができなかった。
「イグレイン……」
「見て! あなたたちが穢した、わたしたちの心を!」
イグレインは戸惑うルシアスに、叩きつけるように聖地を指し示す。
「許さない、あなたとホルタリアを。土地が欲しいなら、土地だけ取ればいい。民を征服して、捕虜にして、命を奪ったばかりでなく、魂までも取り上げようと言うの!」
女神アルテニアとともに生きてきた民だった。生活のいたるところに、心の深いところに、いつも女神の存在を感じて暮らしてきた。守護神と自分たちとのつながりを断ち切らないために、祭祀長の娘イグレインを失うわけにはいかなかった。
だから、敵わないとわかっていても、民は戦わなければならなかったのだ。
「あなたたちは、自分たちの信仰や慣習以外はすべて忌まわしく排除すべきものだと考えている。異教の聖地を土足で踏み荒らし、血で汚し、まるでなにもなかったかのように道を敷いて隠してしまう。あなたたちから見れば蔑むべき邪教であっても、わたしたちにはわたしたちの守るべき魂の砦があるの。それは――それだけは、絶対に明け渡したりしない!」
しぼられるような痛みが、胸を苛む。ほとばしるままに吐き出した感情の奔流に、イグレインは押し流されそうになった。
くらりと眩暈を覚える。白光が目の前で明滅した。
「イグレイン!」
名を呼ぶ声が聞こえたのを最後に、イグレインの意識は白濁した。