第2話 聖地の傷痕(2)
塔の見えるところまで、という距離の中には、征服されたパナケアの民の集落もあった。
この辺りは〈暁の丘〉の土地のため、イグレインにはなじみのない人々ばかりだ。だが髪も瞳も暗い色ばかりのホルタリア兵とは違い、金の髪に青い瞳のパナケアの民に出会うと、ほっと心がやわらいだ。
被征服者としてホルタリア軍の抑圧下にある人々は、みな怯えた目をして、潜むように暮らしている。戦のために疲弊し、占領下という不自由な状況で、緊張を強いられているためだろう。
しかし、生命を脅かされるほど切迫した様子には見えない。憔悴しているが、悲惨な感じが窺えないのは、少なくとも食べることと住むところは安定しているからだろう。
ルシアスは支配下に置いたパナケアの民に糧食を供給し、可能なかぎり居住の自由を許している。届出さえすれば、耕作や牧畜も認めている。部族でまとまることも許し、族長的な立場にある者に対しては、部族に対する一定の権限をも与えている。
病気や怪我の治療は魔術師や呪術師の役目のため、ホルタリア軍は認めていない。そのかわり、望めばホルタリア軍の軍医が看てくれる。
部族同士の小競り合い程度の戦しか知らないイグレインにとって、圧倒的な戦力を持つホルタリア軍は、伝説に謳われる神の軍勢に匹敵する。それほどの強国に支配されることも、当然初めてのことだ。
征服した民を保護し、制限がありながらも生活を保障する。敵を丸ごと呑み込んでしまうほどの支配力というものを、イグレインは知らない。
(これが、国の大きさの違いだろうか)
つねに余裕を窺わせるホルタリア軍からは、背後に控える帝国の強大さが見え隠れしている。
そして、この被征服民への措置は、裏を返せば本気で領土に加えるつもりなのだという意思表示でもあるだろう。
イグレインは忙しく働くホルタリア兵を遠目に眺める。
戦のないとき、彼らは大抵、なにかを造っている。なにかとは大きな建造物――建物や橋、道路などだ。
破壊した集落を建て直すというより、新たな集落を造っている。規則正しく整備された配置で、ホルタリア風の家屋が建ち並び、ならした土地には堅い石畳の道を敷く。
パナケアでは見ることのなかった、秩序によって整えられた町というものができあがっていくさまを、イグレインは暗澹とした気持ちで見守る。
(あの家、あの道の下には、パナケアの魂が埋められている――)
それぞれの部族が、信仰によって代々守り繋いできた聖なる土地。血と泥で踏みにじられたその上に、ホルタリアの町並みが展開されるのだ。
寛大とも思える支配の中で、唯一禁じられていることが、パナケアの神々への信仰だった。
(〈清らかな泉〉の民は、どうしているだろう)
イグレインは自分の部族の生き残りを思った。〈清らかな泉〉の地は、この〈暁の丘〉から、〈蒼い森〉を越えた先にある。
(会いたい)
懐かしい民は、いま、どのように暮らしているのか。気になり出すと、会いたくてたまらなくなった。
民のことを気にかけない日はなかった。だが、いままでは、会う気にはなれなかった。
(敵の虜囚に甘んじているわたしに、皆に合わせる顔があるだろうか)
しかも、あろうことか敵の将軍の想い人として囲われている立場で。
それでも、いまイグレインは、〈清らかな泉〉の民に会いたいと強く思った。会わなければいけないのだ。
(わたしは、女神アルテニアの祭祀長の娘だから)
女神アルテニアと、彼女の民を守るためだからこそ、虜囚となっても生きていられるのだ。
「お願いがございます」
夕刻、訪ねてきたルシアスに向かって、イグレインは真っ向から切り出した。
「〈清らかな泉〉の民たちに会いに行きたいのです」
不意をつかれたルシアスは、一瞬、言葉を失ったように黙り、すぐに破顔した。
「初めてだな。おまえが、わたしになにかをねだったのは」
「遠出の許可をください」
嬉しそうなルシアスの表情が、なぜか胸に痛い。イグレインはたたみかけるように続ける。
「逃げはしません。必ず戻ります。だから……」
「認めよう。――ただし、条件がある」
ルシアスは長衣トーガの裾を捌き、イグレインの寝台に腰を下ろしながら、
「ひとりでは行かせない。わたしが同行する」
今度はイグレインが目を瞠る番だった。
「あなたが、同行する、ですって」
「そうだ」
ルシアスは涼しい顔で答えた。イグレインは呆れ、腹立たしくなる。
「なにをお考えです。総司令官たるあなたが、たかが虜囚ひとりの見張りのために、本営を離れるのですか」
「見張りではない。護衛だ」
「どちらでも同じことです」
「おまえの故郷までは、五日もあれば往復できる。次の戦までには、充分間に合う」
次の戦とは、パナケア最後の部族〈月の沈む谷〉を攻める戦のことだろう。〈月の沈む谷〉は、〈清らかな泉〉のさらに先にある。
「迷惑です。どこから見てもホルタリア人のあなたに、ついてこられるなんて」
ルシアスの部下もホルタリア人だから同じなのだが、ルシアスだけは避けたかった。
ルシアスの、黒い瞳が怖い。想いを秘めた強いまなざしを感じるとき、イグレインは胸の奥がざわめくのを抑えられない。
想いを寄せる女として捕らえておきながら、一度も手を触れようとはしない彼の本意が、イグレインにはわからない。それが、怖い。
いっそ、力尽くで辱められ、あっさりと捨てられてしまったほうがましなのではないか。そう自虐的になるほど、いまのこの状態が息苦しく、心に重い。
(あなたは、わたしに、なにを期待しているの)
「迷惑か。手厳しいな」
ルシアスは苦笑した。
「――冗談だ。おまえの言うとおり、軍の責任者であるわたしが、ここを離れるわけにはいかない」
首を振りながら、ルシアスはどこか残念そうに言った。
「部下を同行させる。どこから見てもホルタリア人だが、顔を覆うことくらいはできる。それに、おまえが民と会うときには、どこか離れたところに隠れているよう命じておく。それなら問題はないだろう」
イグレインはほっと胸を撫で下ろす。この安堵感は、どういう意味だろう。
――あなたと一緒には、いたくない。
危うくそう言ってしまいそうだった。
わずか数日でも離れられるということで、こんなにも気持ちが楽になるのだろうか。
(それほど、この人を憎んでいるの……)
探るように目を上げると、こちらを見つめている黒い瞳とぶつかった。
どくん、と波打つ鼓動。身体の奥で、ひそやかに、少しずつ高まりながらうごめく、温かく湿ったなにか。
(やめて……見ないで)
イグレインはルシアスに背を向ける。
(そんな目で、わたしを見ないで――)
「必ず帰ってこい」
有無を言わせない強い口調。イグレインは振り返ることができない。
「帰ってこなければ、一軍を動かしてでも、迎えに行く」