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第2話 聖地の傷痕(1)

「魔女を殺せと、兵士たちが騒いでいる」


 いつものように香草湯でひと息入れたルシアスが、イグレインにそう告げた。


〈清らかな泉〉を滅ぼした後、ルシアスは露営からこの砦――先の秋に征服した〈暁の丘〉の集落と族長の館に陣営を移した。

 館の敷地には三層の塔があり、優れた魔術師と評判だった〈暁の丘〉の族長が、魔術や呪術の修練に使っていたという。

 ルシアスは塔をまるごとイグレインの住居にした。


 魔術師ではないが、祭祀長の父親の助手をしていたイグレインは、薬草や鉱物に精通し、たいていの怪我や病の手当は可能だった。

 異教の祭祀に関わる者であること、薬物毒物に詳しいこと、そして帝国の皇子にして遠征軍の司令官を惑わした存在であることが、ホルタリア兵たちの不安と恐怖を煽り立てたのだろう。


「殺したらよいでしょう。最初から、そうすべきでした」

「他人事のように言うのだな。死にたいのか」


 問われて、イグレインは返答に詰まる。ルシアスは微笑しながら、


「殺さなければ兵たちが騒ぐ。殺してしまえば、わたしが困る。難しいところだな」


 難しいと言いながら、ルシアスはあまり深刻そうには見えない。


「パナケアの魔術師は、炎や水や風を自在に操ると聞くが、本当か?」

「魔術師が操るわけではありません。精霊をそのように動かすのです」


 自然の中に息づく精霊たちは、それぞれ秘せられた名前を持つ。名前を知られることは、存在そのものを握られることを意味する。力のある魔術師は、名前を握った精霊たちを自在に使役することができる。


「見たことがあるのか、その精霊とやらを」


イグレインはどう答えるべきか迷う。


「……精霊たちは、確かに存在します。信じてはいただけないでしょうけど」

「そうだな。この目で見ることができれば信じるが。目に見えない不確かなものを信じるのは無理だな」


 イグレインは小さく溜め息をつく。ルシアスの答えに落胆したわけではない。

 信じていなければ、感じることも、見ることもできない。見たもの、触れたものしか信じない人間には、きっと永久に無理なことだろう。


(だから、平気で聖地を踏みにじることができるのね)


 イグレインはルシアスに背を向け、唇を噛む。


(失ったものは、取り返しがつかない。流れてしまった血は、二度と戻ってはこない)

「――魔女なのか?」

 問われて、イグレインは振り返る。


「だとしたら、いかがなさいます」

「幸いだな。おまえを知ることで、パナケアの考え方を知ることができる。精霊も信じられるようになるかもしれないな」

「部下の方々は、どうなさるのです。禍の種を残したままにしておくのですか」

「おまえは殺さない。誰がなにを言おうとも」


 ルシアスははっきりと断言した。


「ずっとここに閉じ籠っているのも気が滅入るだろう。この塔が見えるところまでなら、自由に外出してもかまわない」


 存外な言葉に、イグレインは驚いた。


「虜囚を自由に外出させるのですか」

「おまえが望むなら」


 ルシアスは階下を指差し、

「ここに移ってきてから、塔の入り口の扉に鍵は掛けていない。気づいていなかったか」


 気づくはずもない。イグレインは首を振る。自分から開くことができる扉だとは、思ってもみなかったのだから。


 陣営を移して間もなく、ルシアスは〈薊の原〉を征服するために出陣した。その留守の間イグレインは、この塔を出たことは一度もなかった。食事は毎回運ばれるし、生活に必要な身の回りのことは、塔の中だけで事足りるように整えられていたのだ。


「……逃げるとは、思わないのですか」

「逃げたければ、逃げればいい。――だが、必ず見つけ出す」


 真っ直ぐで迷いのない意志を秘めた、真夜中色の瞳。

 イグレインは吸い込まれそうな錯覚を覚える。


「どうして……どうして、そこまで」

(わたしにこだわるの)


 家族を殺した。仲間を殺した。故郷を奪った。魂を――穢した。


(そこまでした女に、いまさらなにを期待するというの)

「知っているはずだ。おまえは、わたしにとって、特別な存在なのだと」


 ゆるぎないルシアスの言葉が、イグレインをからめ取ろうとする。魔術師が唱える呪文のように、耳の膜から心の襞へと侵入してくる。

 イグレインは目を閉じ、耳をふさいだ。


「わたしが庇護しているかぎり、誰もおまえを傷つけることはない。心配せず、気晴らしに出てくるといい」


 ルシアスの言葉は偽りではなかった。外に出たイグレインに、ホルタリア兵たちはいっさい危害を加えなかった。


 好奇の目で見る者、恐れや侮蔑のまなざしを向ける者、中には、あからさまに欲望の視線をぶつけてくる者もいた。

 だが誰ひとり、イグレインに手を出そうとする兵士はいなかった。


(それだけ統率された兵ということだろうか。それとも……彼のせい)


 部下の兵士たちがルシアスを見る目は、まるで武神を崇めるかのようだった。

 皇子とはいえ年若く、歴戦の勇士というわけではないだろう。しかし、ルシアスよりはるかに多くの戦場を経験しているだろう年配の兵士でさえ、息子のような年齢の総司令官を尊崇している様子だった。


(彼のなにが、そうさせているのだろう)


 イグレインはいつしかルシアスに興味を抱き始めていた。


「イグレインどの」


 不意に後ろから呼びかけられ、イグレインは足を止めた。

 振り返ると、軍装を脱いで長衣(トーガ)をまとった初老のホルタリア兵が、片手を上げて挨拶を寄越した。


「ニケタスどの」


 イグレインも会釈を返す。


「やっと外へ出る気になられたか。よかった。閣下がさんざん心配なさっていたぞ」


 男は穏やかな笑みを浮かべながら、イグレインの隣に立つ。


 出る気になるもなにも、出られる状態だとは知らなかったのだから、勝手に心配されても困る。イグレインは返答しかねて黙した。


 ニケタスというこの男はルシアスの部下で、遠征軍の副官だった。パナケアの言語に通じ、捕らえられて初めてルシアスの前に出されたイグレインに、通訳をしてくれた人物だ。

 イグレインはニケタスからホルタリア語を習った。会話を重ねるうち、この人物が驚くほど博学であることを知った。人柄も温厚で、兵士というより学究の師のようだった。

 なにより、ニケタスはホルタリアの一神教の信徒でありながら、パナケアの信仰を一方的に蔑むことはせず、異なるものとして受け入れる度量を持っていた。


 イグレインは敵の中で、ニケタスだけには多少の信を置いていた。


「少しは気分転換できたかな」

「……そうですね」


 連れ立って歩きながら、イグレインは曖昧に笑む。


「見渡すかぎり敵に囲まれた生活で、気が晴れることなどないか」

 敵軍の副官はずばりと言い当てる。

「われわれを憎んでおられるだろう」

「……」


 イグレインは答えない。


「憎んで当然だ。その敵の総司令官に、想いを寄せられたとしても、応える気になれないのも、もっともなことだ」


 ニケタスの意図がわからず、イグレインはちらと横目に彼を窺う。

 すると、真っ直ぐに見つめ返してくる視線とぶつかった。


「イグレインどの。部族を滅ぼしておいて、なにを虫のよいことを言うのだと、お腹立ちだろう。だが閣下の、閣下個人としての誠意だけは、信じていただけないだろうか」

(――ルシアス個人としての、誠意)


 言葉よりも確かな想いを語る、真摯な黒い瞳。

 見つめられると、苦しくて、逃げ出したくなるのは、なぜなのだろう。


「ニケタスどのは、将軍とは、長いお付き合いなのですか」

「閣下がお生まれになったときから、存じ上げておる。以来二十年、ずっとお傍にお仕えしている」

「将軍を守って差し上げていたのですね」

「……そう望んでいたが」


 ニケタスは目を伏せる。


「お守りしたかった。閣下の進む道を妨げる、すべてのものから。しかしそれは、叶わない。あの方は身分こそ第三皇子だが、庶子なのだ」

「庶子」


 正妻ではなく、愛妾の生んだ子供。パナケアの族長の中にも、妻のほかに寵愛する側女を何人も持つ好色な者がいる。めずらしいことではない。


「ホルタリアでは、信仰上、一夫一婦制が原則だ。皇帝陛下には皇后陛下のほかに、数人の寵姫がおられる。だがそれは、あくまでも側女であり、御子が生まれても継承権は認められない。しかし皇帝陛下は閣下の母君を寵愛するあまり、大司教の反対を押し切って、閣下に第三皇子の地位を賜った。閣下と母君の存在は、神の前に許されざる罪なのだ」


 意外な話だった。


「閣下は幼いころから、兄上たちより学問も武術も優れていらした。陛下はそれをお認めになり、閣下を重用なさっている。今回の遠征軍の総司令官に任命されたのも、異例の大抜擢だ。だから……それを快く思わない人々が、確かに存在する」


 それは当然だろう。神に逆らう立場の者が、輝かしい栄光の道を歩もうというのだ。許せないと思う人間がいないはずがない――たとえば、正統な後継者と主張する、異母兄たちなど。


「いまのところ、閣下は勝利を収め続け、陛下もご満足でいる。だがもし、閣下が失敗するようなことがあれば、決して小さくはない勢力が徹底して追い落としを図ってくるだろう」


 苦い思いを噛みしめるように、ニケタスは濃い眉を険しくしかめる。


(なんと危うい道なのだろう)


 イグレインは胸の奥に重苦しさを感じた。

 イグレインの前のルシアスは、いつも力強くて快活であり、それほどの闇を背負っているようには見えなかった。


(存在自体が許されない、そんな切ない生とは、どんなものなのだろう……)


 誕生することを心から望まれ、成長することを誰もが祝福してくれたイグレインには、その闇の深さが計れない。

 ただ、ルシアスの人生に闇があるのだと思うと、胸の芯に痛みが走る。


(――これは、なに?)


 理由のわからない苦しさに、イグレインは視線を泳がせる。


 ふと、足早に陣営を駆け回る若い兵士の姿が目に止まった。

 兵士は羊皮紙の束と思われる物を抱え、大声で名前を呼びながら人探しをしている。目的の人物を見つけると、羊皮紙を繰って文面を探し、該当の者に読み聞かせる。それを繰り返していた。


「ニケタスどの、あれは」

「ああ、伝令の者だ。本国にいる家族の伝言を兵士に届けているのだ」

「家族からの伝言? こんな、遠く離れた異郷の戦場に、ですか」

「そうだ。閣下のお心遣いでな。故郷や家族と離れて戦う兵士たちを慰撫するため、十日に一度、伝令を行き来させている」


 驚くイグレインの前で、伝言を聞いた兵士が、笑みくずしながら涙を拭っている。


「もし兵士が戦場で命を落とした場合、残された家族の生活を保障する制度を設けられたのも閣下だ」


 イグレインはニケタスを見つめた。ニケタスがゆっくりと頷く。


「そういうお方なのだ、閣下は。まだお若いのに、ご自身のことより部下への配慮に心を砕いておられる。一軍の総司令官が、先頭に立って戦車を駆るなど、古参の将軍から見れば無謀以外のなにものでもない。だが閣下は、あえてそれをなさる。部下の命を預かり受ける立場であるのに、それを盾に隠れているのは、恥知らずな卑怯者であるとおっしゃるのだ」


 若さゆえの無謀――だがそこには、自分自身に対する激しいまでの厳しさがある。

イグレインは首を振った。


「でも……もしそれで、将軍の身になにごとか起こったら……敵に傷つけられたら、どうなさるのです。指揮官を失った軍は、崩壊してしまわないのですか」

「イグレインどの。閣下を見くびらないでいただきたい」


 ニケタスは笑いながら言った。


「閣下はお若いが、戦を知らぬ小僧ではない。先陣を切るのも、ただ闇雲に突っ込むわけではなく、冷徹な目で戦機を見ておられるからできることだ。攻撃は迅速で苛烈だが、勝敗の見極めは正確で早い。だから、深入りをして余計な犠牲を出すこともない。あれはまさしく天賦の才だ」


 初老の副官は熱っぽく語った。まるで、父親が愛する息子を自慢しているような様子だった。


「将軍を、とても敬愛していらっしゃるのですね」

「無論だ。心から尊敬申し上げている。あの方こそ、王者としてふさわしい。――だからこそ、あの方が見出した女性も認めるのだ」


 イグレインは歩みを止め、ニケタスと対峙する。


「あなたは、とても美しい。閣下が一目で心を奪われたのもわかる」


 ニケタスは眩しそうに目を細める。


「ホルタリアにも、美しい女性はたくさんいる。だが、あなたの美しさは、彼女たちとは違う。顔立ちや、髪や瞳の色が異なるという意味ではなく……」


 言葉を探すように、ニケタスは一瞬考え、


「われわれから見ると、手の届きそうで届かない、中天の月のような存在だ。だから、無条件で憧れ、恋い焦がれる」


 そんなふうに言われても、どう反応すればいいのか。イグレインは困惑し、うつむいた。


「あなたの部族が泉の女神を祀っていると聞いたとき、わたしはあなたの姿形こそが女神のようだと思ったものだ」


 ニケタスのそのひと言が、イグレインの意識の核を突き刺した。一瞬、呼吸が止まり、頬が強張る。顔から血の気が引き、体が冷えていくのがわかった。


「あ……いや、失礼した。あなたの信仰を揶揄したつもりではないのだ」


 イグレインの異変に気づいたニケタスは、すぐに詫びた。


 泉の女神アルテニア。聖なる水であらゆる穢れを清め、あらゆる病を治し、永遠の癒しを与えてくれる。水は生命を生み、また生命を滅ぼす。泉は現世と冥界を結ぶ扉であり、境界を浄化し守護するのも女神アルテニアの役割だ。

 〈清らかな泉〉は女神アルテニアから生み出され、女神アルテニアのために生きる部族(クラン)だった。


「本当に申し訳ない。侮辱するつもりはなかった」

「気にしておりません。どうぞ、お忘れになってください」


 イグレインは恐縮しきるニケタスに一礼し、ひとり歩き始めた。


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