第1話 征服者と乙女(2)
大陸の西の海に浮かぶ島パナケアは、国の興亡の激しい大陸とは異なり、長くゆるやかな時間をかけて独特の価値観を守り続けてきた。
パナケアの民は、自然の万物に神や精霊を感じる。〈清らかな泉〉の民が泉の女神アルテニアを守り神として信仰するように、ほかの部族でも、それぞれ風の神や川の神や火の神などを祀っている。
イグレインの父親は女神アルテニアの祭祀長であり、〈清らかな泉〉の族長でもあった。
母親はすでに亡くなっており、イグレインは幼いころから助手として、父親の執り行う祭儀の手伝いを務めていた。
病気や怪我の治療も、祭祀に携わる者の役目だった。他の部族では、魔術師と呼ばれる特別な職能者が治療を行っている場合もあるが、〈清らかな泉〉ではイグレイン父娘が民の健康を預かっていた。
その日、イグレインは館の離れにある治療部屋で、薬草を選り分けていた。
突然、甲高い悲鳴が響き、複数の足音がばたばたと通り過ぎていく。
なにごとかと、急いで外へ出てみると――集落を炎の津波が飲み込もうとしているところだった。
「お父さま!」
イグレインは至聖所にいるはずの父親を呼びに走った。
「イグレイン、ここだ」
祭壇の前から、父が手招きをする。
「お父さま、これは……」
「ホルタリアの軍勢だ。パナケアに上陸し、〈鷲の岩場〉を攻めたという噂は聞いていたが、まさかこんなに早く進軍してくるとは」
ホルタリア帝国。
イグレインはその国の名前を、ほんの最近、知ったばかりだ。大陸から切り離された島パナケアでは、大陸の情報はほとんど伝わってこない。時々、放浪の吟遊詩人が目新しい話題を求めて大陸から渡ってきたりもするが、人の往来は決して多くない。
「ここにいては危ない。早く……」
逃げろ、と言いかけた父を遮って、至聖所の扉が跳ね飛ばされた。
「――!」
破られた扉から殺到したのは、見慣れない姿形をした男たちだった。髪も目も暗色で、少し浅黒い肌をしている。金属の板をつなぎ合わせた鎧を身につけ、鉢を伏せたような兜を被っていた。
男たち――ホルタリア兵士たちは、イグレインには理解できない言葉を発しながら、至聖所を荒らし始めた。祭壇を崩し、儀式の用具を片端から壊していく。
父はイグレインを背後に庇い、青ざめた顔でホルタリア兵の蛮行を睨み据えていた。
イグレインは父の背に隠れながら、状況を把握するのに精一杯だった。生まれてから十七回の季節を数える現在まで、日々はつねに変わりなく、穏やかに過ぎていくものだったのだ。
形をとどめている物がなくなるほど、至聖所は破壊しつくされた。するとホルタリア兵はイグレイン父娘に手を伸ばし、父親を引き剥がした。
「お父さま!」
兵士ふたりに拘束されながら、イグレインは父親を呼ぶ。その眼前で、ホルタリア兵の鋭く厚い槍の穂先が、父の胸を貫いた。
「……!」
イグレインは声にならない悲鳴を上げた。
槍が引き抜かれると、破裂するように鮮血が噴き出した。父親は目を見開き、うめき声すら立てず、地面に倒れる。
「お父さま!」
必死の思いで身体を揺すると、捕らえていた兵士の手が離れた。イグレインは倒れ込むようにして父の身体にすがりついた。
父親はすでに息をしていなかった。
「お父さま、いやです、お父さま!」
叫びながら、気が遠くなるほどに泣くイグレインを、ホルタリア兵士が取り囲む。
イグレインは父の遺体を守るように抱き、敵兵たちを睨み上げた。
(殺すなら、殺せばいい。たとえ、わたしが死んだとしても、女神アルテニアはおまえたちを許さない。絶対に――)
死を覚悟したイグレインだったが、ホルタリア兵たちは黙って見下ろしているだけだった。怪訝に思ったそのとき、あの男が現れた。
「――」
理解できない言語の言葉が、兵士の輪の外から響く。兵士たちが、一斉にそちらの方向に目を向けた。
取り囲む兵士を割って立ったのは、やっと少年から脱け出したばかりの背の高い青年だった。ほかの兵士より精緻な細工を施した鎧をまとっており、身分が上位なのだとわかる。
強い光を湛えたその黒い瞳は、イグレインを注視したまま時間を止めた。
(敵の……首領なの)
パナケアの民とは異なる容貌だが、目を惹かれるほどに端正だった。
このような顔をした若者が、非道な殺戮を行うというのか。イグレインは戸惑い、一瞬だけ憎しみを忘れた。
青年は傍らの兵士になにごとかを告げる。すると兵士は頷き、父の遺体からイグレインを奪い、腕を抱えて立たせた。
「……」
青年はイグレインから目を離さない。イグレインは憎悪を持って突き刺すように見返し、兵士に連行されて至聖所を出た。
その直後、至聖所は父の遺体を置き去りにしたまま、火をかけられた。
ホルタリア軍は〈清らかな泉〉の集落から少し離れた場所に布陣していた。兵士に連れられたイグレインが陣営を歩くと、残留の兵士たちが好奇のまなざしを向けてきた。
やがて、ひとつの天幕の前に至る。案内の兵士は彼女に中へ入るよう促した。
思いのほか広いそこには、湯を張った大きな盥が置かれていた。連れてきた兵士の身振りから、この湯で汚れた身体を洗えということだとわかった。
(……こんな熱い水を浴びろというの)
イグレインは眉をひそめる。冷たい泉や川での沐浴が習慣のパナケアの民にとって、沸かした水を浴びるなど、考えられなかった。
(でも……逆らえない)
父の死を眼前にして興奮していたときは、自棄になっていた。いま、少しだけ頭が冷えると、捕虜となった部族の民のことを考える余裕ができた。
(わたしが逆らえば、皆の命が危うくなる)
族長の娘として、最後まで果たさなければならない責任がある。イグレインはくじけそうな気持ちを無理にふるい立たせ、汚れた衣裳を脱いだ。
髪と肌を清め、身支度を整えたイグレインは、また別の天幕へと案内される。
そこには、あの青年が待っていた。
虜囚となった女がどのような目に遭うか、イグレインも知らないわけではない。覚悟を決めて敵の男の前に立つ。
「ホルタリア帝国パナケア遠征軍総司令官、ルシアス将軍閣下である」
パナケアの言語が聞こえ、イグレインは驚いた。青年の傍らに控えていた初老の兵士が、彼女を見て頷く。明らかにホルタリア人だが、パナケアの言葉の発音は正確だった。
ホルタリア帝国軍総司令官、ルシアスという名の青年将軍は、椅子に座したまま、イグレインを凝視した。
月のない真夜中の空のような、深い深い黒の瞳。強固な意志を窺わせる強いまなざしを、イグレインは逸らすこともできないまま真正面から受け止めた。
やがて、青年将軍が口を開いた。彼の発したホルタリア語を、通訳の兵士が伝える。
「黄金の髪、青い瞳の民は、ホルタリアでも珍しくはない。だが、おまえのような娘は初めてだ」
わかる言葉で聞かされても、その言わんとする意味は、理解できなかった。ただ、自分はこの敵の将軍にとって、なにかが特別な存在なのだということだけは理解した。
特別ななにかが、良いことなのか悪いことなのかまでは、わからなかったが。
以後、敵の将軍ルシアスは、虜囚としたイグレインを手元に置き、たびたび訪ねるようになる。
訪ねるだけで、イグレインに触れようとはしない。
(どういうつもりなの)
ルシアスはイグレインになにかを要求するでもなく、一緒に食事をしたり、単に顔を見に来たりするだけだった。話があるときは、あの通訳の兵士が同席した。
イグレインがホルタリア語を覚えようとしたのは、決して敵に心を許したわけではない。生き残った〈清らかな泉〉の民の様子や、パナケアの現況を把握したかったからだ。
ルシアスは喜んだ。いちいち通訳を介して会話するのがもどかしかったらしい。
だが、イグレインが言葉を覚えたからといって、会話が弾むわけではない。イグレインはルシアスを無視することが多かった。
彼が自分に好意を抱いていると知ると、ますますかたくなに心を閉ざした。
(父の仇、〈清らかな泉〉の敵)
誰よりもその自覚のあるルシアスは、虜囚だというのに自分の前で膝を折らないイグレインの態度を大目に見ている。
(でも、それだけじゃない。彼はわたしの心の中など、なにも知らない)
自然のあらゆるものに神を宿すパナケアとは異なり、ホルタリアは唯一絶対の神を信仰していた。パナケアの民にしてみれば、特異に思える信仰だ。
ホルタリアもパナケアの信仰を奇異に感じたようだ。ただし、他者の信仰に無関心なパナケアの民とは違い、ホルタリアでは異教は蔑むべきもの、排除すべきものだった。
ホルタリア兵は、イグレインの目の前で至聖所を破壊し、火をかけた。そして血と泥で聖なる泉の数々を穢した。
(穢された泉は、もはや女神アルテニアの加護を寄せつけない、ただの水たまりとなってしまった――)
生き残った民はホルタリアの被征服民として、軍の支配下に置かれた。当然、女神アルテニアを祀ることは許されない。いまはまだホルタリアの一神教への改宗を強要されていないが、パナケア征服が完了したら、本国から司祭が派遣されるという。
(パナケアの民は、故郷の地という身の拠り所とともに、魂の拠り所までも奪われてしまう)
魂までも支配するために、信仰を指導する祭祀長は殺された。本当なら、助手を勤めていた祭祀長の娘も生かしておくべきではない。
だが、イグレインは殺されなかった。
(敵の将軍の目に止まってしまったから……)
悔しく、腹立たしく、情けない現実。なにかを考える余裕などないうちに、父と一緒に死んでしまえたら、どれほど楽だっただろう。
(死に損なってしまった)
いまも続いている自分の命を、そう思う。だが、もしかしたら、生き残った民を守らせるために、追いかけてくることを父が許さなかったのかもしれない。
(こんな気持ち、わかるはずもないでしょう)
自分を見つめるルシアスのまなざしを感じるたび、イグレインは、ときには挑むように見つめ返し、ときには一切目を合わせない。そうすることが、自分の戦いであるかのように。
(魂の拠り所を奪ったとしても、魂そのものだけは、絶対に渡さない)
虜囚となって以来、かたく心に誓ってきた。それが、ルシアスに対する復讐だと思うから。直接に命を狙わずとも、戦う方法はあるのだ。
――彼の想いを、決して受け入れないこと。