第1話 征服者と乙女(1)
「ルシアス! ルシアス!」
突き上げるような歓声とともに、その名が叫ばれ、凱歌が響き渡る。
外の喧騒をできるだけ無視していたイグレインだったが、ひときわ高い歓喜の声が上がると、つられるように窓辺に寄って街路を見下ろした。
戦勝に沸く兵士たちの間を、騎馬の将軍が通る。
丹念に鍛え上げた、しなやかで強靭な体躯。剣を振るい、戦車を操り、乗馬を疾駆させるためにある長い手足。彼の国の正装である長衣をまとうより、軍装のほうがはるかにふさわしい。
(当たり前ね。戦うために来たのだもの)
冷ややかに観察していたイグレインの眼前、彼女の見下ろす塔の窓の真下で、将軍が乗馬を止めた。そして頭から顔を覆っていた兜を外す。
「ルシアス!」
彼を取り囲む部下の兵士たちが、再び沸いた。
夜闇のような黒い髪を振り、将軍が塔を――イグレインの窓を見上げる。
目が合う、と思った瞬間、イグレインは身を引いた。
歓喜とは無縁の醒めた意識に、たったいま目にした街路の隅の光景が蘇る。
荒い毛織物の衣裳に薄い毛皮をまとった人々。憔悴した顔に、喜びや希望は見えない。征服され、抑圧された生活が、彼らから明るい表情を奪っているのだ。
自分と同じ、金の髪と青い瞳を持つ彼らの境遇を思うと、胸の奥が苦しくなる。
(――なにもかもすべて、ホルタリアのせい)
イグレインは唇を噛みしめる。
大陸の南から興った帝国ホルタリアは、圧倒的な軍事力で大陸を席巻し、西の海峡を越えてこの島パナケアに侵攻した。
土地に起伏の多いパナケアには、統制された国というものは存在しない。いくつかの部族がそれぞれの領域を守りながら住み分けている。部族間の戦もあるが、ホルタリア帝国軍のように規律と訓練によって統率された軍隊との戦は未知のものだった。
兵も馬も大量に投入し、怒涛のように押し寄せるホルタリア軍。中でもホルタリアの戦車――戦闘馬車は、馬とは人を乗せて走るか荷を運ばせるかしか知らなかったパナケアの民に、驚きと恐怖を与えた。
下の街路からは、まだ歓声が続いている。凱旋の行進。パナケア最大の部族、〈薊の原〉を滅ぼしたのだろう。残るは一部族、それでパナケア征服は完了する。ホルタリアの完全勝利は目前だった。
(〈清らかな泉〉が滅ぼされたことも、そのうち忘れられてしまうのかもしれない)
イグレインは寝台に横たわり、いまはもうない自分の部族を想う。涙は出ない。ただ、茫漠とした虚無感があるだけだ。
(お父さま……)
ホルタリア兵の槍に胸を貫かれ、声も立てずに息絶えた父。泉の女神アルテニアを祀る部族〈清らかな泉〉の祭祀長、事実上の族長だった。
(お父さまが生きていらしたら、わたしのことをどうお思いになるだろう)
敵の虜囚となり、敵の糧で生き長らえている恥知らずな娘を。
(しかも、ただ虜囚なだけじゃない……)
そのとき、唐突に部屋の扉が開いた。鍵はかかっていない。内からも、外からも。
「見ていただろう、イグレイン」
よく通る快活な声音が飛び込んできた。力強い軍靴の足音。部屋の住人の許可も請わず、遠慮なく入ってくる。
短く切った、夜闇のような黒い髪。同じ黒の瞳を持つ目元は、血と埃にまみれる戦士にしては涼やかで、陰りがない。彫が深く端整な顔立ちは、まだ青年の入り口を通ったばかりの若さだ。
ホルタリア帝国パナケア遠征軍総司令官ルシアス。ホルタリア皇帝の第三皇子であり、若いながら秀でた軍略の才と統率力によって、ホルタリア軍随一の将軍と目されているという。
青年将軍は、おそらく戦場では絶対に見せないだろう明るい笑みを浮かべ、イグレインが座る寝台の傍らに立った。
イグレインは露骨に眉をひそめ、無感動にルシアスを睨み上げる。そして、かなり流暢になったホルタリア語で答えた。
「見ておりません」
「嘘だ。下でこの窓を見上げたとき、おまえの金色の髪が見えた」
「天候が気になったので、空を眺めておりました」
「上だけを見て、下を見ないことはないだろう。これだけの喧騒だ。気にならないはずがない」
「気になりませんでした」
しらじらしい嘘を素っ気なく言い捨て、イグレインは青年を無視するようにそっぽを向く。
「いつも嘘つきだな、おまえは」
そう言いながら特に気分を害したふうもなく、ルシアスはイグレインの寝台に腰を下ろす。
反射的に、イグレインは立ち上がった。並んで座るなど、とんでもない状況だ。
「いつものやつを淹れてくれ」
明らかに自分を避けているイグレインに対し、ルシアスは屈託なく話しかける。もう日常のやり取りなので、慣れているのだろう。
「戦勝祝いの宴があるのではないですか」
「あるみたいだな。それまでには、まだ少し時間がある」
だから来たのだ、と言外に匂わせている。多忙な毎日の隙間を縫ってでも、顔を見たいのだと。
わかってはいるが、イグレインはあえて黙殺する。
続きの小部屋に入ったイグレインは、壁一面に作りつけられた棚から、小さな薬壺を三つ取り出す。同じような薬壺がいくつも並んでいるが、どれになにが入っているのか、イグレインは正確に覚えている。
取り出した薬壺に入っているのは、三種類の香草だった。乾燥させた葉は縮んでいるが、独特の匂いは残っている。
三種の香草を椀に入れ、沸かした湯を注ぐ。すぐに清涼な芳香が立ち昇った。薄く緑色に染まった香草湯を、葉が入らないように別の杯に注ぎ替える。
少し冷めた杯を持って部屋に戻ると、彼女の寝台に当然のように横になっていたルシアスが半身起こした。
「――ああ、いい香りだ」
杯を受け取ったルシアスは、爽快な香りを楽しみ、香草湯をひと口飲んで満足そうに息をつく。
「これを飲むと、帰ってきたという気になるな」
「異教徒の悪癖に染まったと、お付きの方々がおっしゃっているのでしょう」
「頭の固い年寄り連中には、この美味さがわからないのさ。異教徒の習慣でも、快いものは快い」
なんの疑いもなく香草湯を味わうルシアスを、いつもながらイグレインは不思議な気持ちで眺める。
「なにか言いたそうだな」
「……前から思っていたことですが、よくためらいもなく口になさいますね。毒が入っているかもしれないとは、お考えにならないのですか」
ルシアスは一瞬、表情を止めた。意外な話を聞いたとでもいうような顔だった。
「おまえが、わたしに一服盛ると?」
確認するや、はじけるように笑い出す。
「そうか、その手があったか。それなら簡単に暗殺されそうだな」
まるで警戒していない様子である。笑われて、イグレインは少し腹立たしくなる。
「わたくしにはそんな度胸はないと、おっしゃるのですね」
「そうではない。……おまえに殺されるなら、なかなか悪くない死に方だと思っただけだ」
笑いを収め、ふいと真顔で見つめ返す。イグレインは視線を逸らした。
「おまえがなにを考えているかは、わからないが」
飲み干した杯を寝台横の小卓に置き、ルシアスは立ち上がる。
「あれから三か月も経とうというのに、おまえがわたしに害意を見せたことは一度もない。それは事実だ」
三か月――ホルタリアの暦の単位。三か月という期間は、イグレインにとっては春から夏へと移った季節だ。
「表面に表さなければ、心にも抱いていないとお思いですか」
「さあ、どうかな」
唇に微妙な笑みを浮かべ、ルシアスは部屋を出て行った。
(――敵の男)
静かに閉められた扉を、イグレインは射抜くように凝視する。
彼女の部族〈清らかな泉〉は、あらゆる生命が生まれ変わる春の始めに滅ぼされた。