第一章 ルート確定
「……どうしたの? 大丈夫?」
「え?」
「手が止まっているから。いつもなら課題もう終わっている時間なのに」
……目の前にいる女性が私の顔を覗き込んでいる。
「……ごめんなさい。少し気分がわるくて……」
「あら。なら今日はここまでにしましょう。奥様を呼んでくるわね」
……。
「はい。ありがとうございます」
……。
だれだ?
って何をいっているの?
この人は私の家庭教師で、学園入試を控えている私に最後の追い込みをしてくださっていて。
今日だってそのための課題を作成してくださって。
……あれ?
なにこれ……。
「先生。ありがとうございました。ごめんなさいね」
「いえ。合格はされると思いますので、最後の確認の課題ですから」
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
……。
母と先生が話をしているけれど、まったく頭に入ってこない。
ただただうっすらと笑っていることしかできなかった。
……。
「今日はもう休みなさい。ここまで頑張ってきたものね。試験までゆっくりしましょう」
「ありがとうございます。お母様」
スッと自室に戻った。
……私の言動。
まじかぁ……。
やっ……やったーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!
危なかったぁ……。
記憶がごちゃってしたけれど、落ち着いてきた今ならちゃんと整理できている。
私は今いる世界とは違うところの記憶が出てきた。
この記憶は前世と言われるものだろう。
その記憶とこれまでのこの世界の記憶と両方ある。
というか混ざってしまった。
だからよくわからなくなって、どうにか部屋に来て、前世の記憶を整理して。
その結果が。
やった
だ。
これは嬉しいということ。
といっても前世の記憶が良い記憶だったからいいことを思い出して喜んでいるというわけではなく。
前世の記憶によって今の記憶がどういうものなのかを分かったことが嬉しいの。
だって。この世界は。
前世でやりこんだお気に入りの乙女ゲームの世界なんだもん。
うわーーーーー。
ほんと嬉しい。
あのお気に入りのゲームのしかもヒロイン。
え? これって転生? それとも召喚?
前世の記憶あるんだけれど、その辺はあいまい。
まあとりあえずゲームの記憶は鮮明にある。
とにかくやりこんだんだね私。
前世の私は友達がいなくて、ただひたすらゲームをするだけ。
乙女ゲームも携帯ゲームもリズムゲームもRPGも。何でもしたけれど。乙女ゲームは片っ端からした。で。その中の一番のゲームのヒロイン。攻略も全ルート回収した。スチルも回収した。選択肢のルートも覚えている。どこでどれ選んだら次のルートがどれかも。好きなルートもある。
……てことは。
ふとここでまた冷静になった。
……好きな世界にいることに嬉しくて飛んでいたけれど。
私ヒロインなんだよね。
鏡に映る私は、画面で見ていたヒロインの姿。
青みがかった黒髪が腰まであって。大きな真っ黒い瞳。日光に当たっていない肌。華奢な体。
家柄としてはそこまで高貴なわけではない。当主である父がなくなって母がどうにかしてくれているこの家のために、私は貴族が通う学園のなかでも最高峰と言われている学園に入学して、つながりを作る。旦那様になってくれる人と出会えれば一番いいけれど……。それができなくても、作ったつながりで家を盛り立てることはできるはず。
だから勉強がんばって家庭教師の先生にも合格できるだろうって言ってもらえた。
とってもいい子。
でそんないい子は、学園に無事入学して、そこで出会うの。
この国の王子と王子の従妹と宰相の子。
この三人が攻略対象。王子と王子の従妹は同学年。宰相の方は二個上の学年。
どのルートも悪役令嬢はいた。
このゲームの好きなところは、ルートによって悪役令嬢の主体が変わる所。
悪役令嬢は三人組で、メインで動く令嬢が変わるの。
どの子も手を変え品を変え様々な嫌がらせをしてくる。
ヒロインはそれを乗り越え、証拠も集めて、選んだルートを進んでいく。
最後は断罪って流れで無事ヒロインは結ばれる。
というのが流れなんだけれど。
私が一番好きなのは宰相の子。
前世の私の推しである。
今世の私は恋愛とか考えた事がなくて、誰がかっこいいとか、どこと婚約したら何が得られるかということは考えていない。とにかく家を成立させるために頑張る。そのためのマナーを身につけた。そのための自分の見え方を考えた。誰がどう見ているのか。他者からの見え方を優先した。
アンゼリカ。
あなたは何を望む?
鏡に映る私に手を伸ばした。
記憶が入ってきたことで、混乱したけれど、落ち着いて整理がついて。
そうしてアンゼリカと私になった。
アンゼリカ。
呼びかけるとふっと私の目の前に現れて。
今私には二人の私がいる。
この世界で15年生きてきたアンゼリカと。
別の世界で生きていた私と。
アンゼリカ。
あなたは何を望む?
わたしはこの家が。お母様が幸せであることがわたしの望み。
そのためなら。
伸ばした手がつかまれて。
ぐっと引き寄せられた。
空いている手がそのまま腰に添えられて。
この姿勢……。
アンゼリカが私をリードしてステップを踏み始めた。
それに合わせて私も身を任せる。
……アンゼリカはダンスが上手だ。
きれいな姿勢にしっかりと顔が上がっていて。
軽やかなステップ。
舞踏会に参加はしていない。
けれど、いつかは踊らなければならないからと基礎をしっかりと身につけている。
そのためなら、あなただって利用する。
あなたの記憶も、あなたの考えも。全部。
私に届いてくる言葉も声も。
力強くて。
見た目にはんして、この子は強い。
アンゼリカ。
私の望みはあなたの幸せ。
だから、そのためなら私は私の記憶もあなたのこれまでも全部使うよ。
ふふふ。
アンゼリカは嬉しそうに笑って。
わたしが私を使うのよ。当たり前じゃない。
アンゼリカは私のことを受け入れてくれた。
記憶が整理されて、それぞれができたことで、私のもつ記憶をアンゼリカも共有しているだろうに、確認してから見るようにすると決めたようで。どうしたらいいか迷った時に聞かれて、それに答えていった。
わたしが私を使うといったのだから、そういう配慮はいらないと思うのだけれど。
まあ、アンゼリカが望むことをさせたいから。
ああそういうことか。
私がもつ記憶は本来アンゼリカが持っているわけのない記憶。
ゲームの記憶でこれから起きることを知っていると、ルートを行くというよりも、未来予知で好きにできてしまう。それは周りから視たらきっとおかしな様子で。本来アンゼリカが知りえないことまで知っていたらそりゃあ怪しまれるよね。
第三者からどう見えているのかということを大切にしなさいというお母様の教えを忠実に守っているんだ。
本当に。
本当にアンゼリカはいい子だ。
無事。入学試験を合格して、お母様がお祝いしてくださって。
制服や教材がとどいて。
入学式に近づくにつれて、学園でのルートが始まると思うとわくわくしてきて。
アンゼリカも喜んでいる
これでちゃんと貴族の一員として立ち居振る舞いができれば、家に還元される。
家の事を考えると、王族との婚姻が家を太くできるけれど、家柄としては王子の後ろ盾にもならない、特別容姿がいいわけでも、学力だってそうでもないとなれば、前途多難。
宰相の家でその点に関しては幾分かよくなるけれど。それでも宰相の家は何代か前の国王の妹君が嫁いだ家だから、王族の血が全くないわけではない。それに王子たちの幼馴染という立場もあるから、最終右腕になる。そんな方の妻……。結局足りていないわけで。
どのルートに行くべきか。はたまた、どこにも行かないのか。
アンゼリカ。
あなたはどうしたい?
入学して学園生活が始まって。
皆様お名前を聞いたことのある家ばかり。皆様見目麗しい。
アンゼリカだってかわいいけれど、自己肯定感低いからそうは思っていない。
「いつもここで本を読んでいるね」
「……お初おめにかかります。ジル王子」
「……きれいな作法だ。いい指導者のもとで学んだんだな」
……。
わたしの動きでそう判断されるとは……。
やっぱり見ている人は見ている。気をつけないと。
「君は一人の事が多いようだけれど。なじめていないのかな」
……。
余計なお世話である。
と言いかけたのをぐっと飲みこんで。
「皆様とてもよくしてくださっています。ただ本を読むのであれば、わたしは静かなところが好きなので」
ここにいたら会うことはわかっていた。
ゲーム通りなら、まず最初に王子にあう。
でしばらくして、いとこのジエラ様。最後がアキ様。
「そうか。君がいいのなら問題ない。学園は楽しいか?」
「ええ。楽しいですわ」
「ならよかった」
……。
…………。
何だろう。まだいるけれど。
結局。
わたしはそのまま本を読むのは、無礼に当たる気がして、少しだけ世間話をして終わった。
アンゼリカはどうだっただろうか。
私は王子ルートはそこまでだった。
悪役令嬢もあんまり好みじゃなかった。
わたしも王子は王子としか思ってないわ。
そっか。
なら対応もそこそこね。
アンゼリカも王子を選ばないのならいい。
次にいこう。
でゲームのシナリオ通り、残りのお二人にも接触できた。
アンゼリカ。
なにかしら。
アンゼリカは気になる人いた?
そうね……。
わたしね。あなたの記憶を確認したの。
そのなかで、気になることがあるのだけれど。それを聞きたいわ。
なあに?
今私には気になる人がいます。その方とのあなたの記憶とつながりがあるとして。
その記憶を使えば、私はその方と婚約できるのかしら。できたとして、その後の私は生きていけるのかしら。
……。そうだよね。私の持つ記憶はただただゲームの記憶。いくら世界が同じとしてもここはゲームじゃなくてちゃんと現実。この世界でみんなが生きているし、アンゼリカの人生を私は歩んでいた。アンゼリカの望みを叶えるために私を利用する。そう明言したこの子が本当に大好きだ。
叶うよ。
叶うように私はアンゼリカの力になる。
婚約後……までは、私の記憶を知っていると思うからそうできるよ。その後は知らない。でもちゃんと私はアンゼリカの望みを叶える。あなたが生きる道を私は選び続ける。だから。
私を使って。
ふふふ。
またアンゼリカは嬉しそうに笑った。
アンゼリカの選んだルートは宰相の子。アキ様。まさか私の推しとは。うれしい。まあどのルートもいいけれど、アキ様ルートが一番未来が明るいって思っている。アキ様はとてもお優しいし、穏やかだし、なによりお話していて心が落ちつく。
王子は少し俺様のようなところがあって、ぶっきらぼうなところがあるけれど、私のことを気にかけてくださっている。
ジエラ様は明るく元気で、少し幼いように見えるけれど、その場におられるだけで空気が明るくなる。
アンゼリカがルートを確定したけれど、まだルート確定まで進んでない。
ファーストコンタクトが終わったから、次から行きたいルートの出没場所に行くようにすれば会えるんだけれど。
初めのうちは他のルートを混ぜるとルートが混ざって、二人きりになれるイベントで三人とかにある。それをよしとするのならいいけれど。
「音楽室に行かないと」
音楽の授業で演奏をすることになっていた。皆様ご自身の楽器を持ってこられていた方もいて、さすがにわたしはピアノだったからそれはしなかったけれど。
家にピアノがあったのと、お母様もたしなまれていたし、アンゼリカがピアノ以外の楽器のあまり興味を持たなかったのもあってピアノだけ習っていた。私は楽器とはからっきしだったけれど、アンゼリカのピアノは好き。
今日アンゼリカが少し演奏したけれど、その時少しだけ首をかしげていて。
アンゼリカ。どうしたの?
ええ。少しだけ気になることがあって。
「失礼いたします」
授業後先生にお願いして、放課後音楽室を使うことにして。
コトンとふたをあけて。
ピアノの白鍵盤を一音ずつたたいていく。
そのあと黒鍵盤も同じように。
……。
「ああやっぱり」
ぼそっとつぶやいた。
「音がすると思って覗いて見たら。……君だったんですね」
「……アキ様」
声がして振り返ると、にこやかな笑みを浮かべたアキ様が入口に。
「何が気になることでもあるんですか」
するっとわたしの横にきて。
同じように鍵盤に触れていって。
「……ああそういうことですか」
覗き込むようにわたしを見た。
「君も耳がいいようですね」
「……はい。音が違うような気がして。授業で触れさせていただきました。他の方が演奏された際は気にならなかったのですが、自分が演奏したときにふと違和感がありまして」
「調律がずれているみたいですね」
二人とも絶対音感があるから、音の違いに気づける。
「ああ。そんな授業がありましたね。ビアノの生徒は多かったでしょう。僕もピアノは少しできますが、演奏するよりも演奏を聞く方が好きですね。……さて。先生には報告は?」
「いえ。まだです。……アキ様がよければなのですが。アキ様から報告していただくことは可能でしょうか」
「おや。僕はかまわないけれど、気づいたのは君だ。君の手柄をとることになるが」
「私はただ違和感があっただけで、確証はありませんでした。アキ様がおっしゃってくださって私も、音がずれていると確信できましたので」
スッと視線を下げる。
「……君がいいのなら構わないが。ピアノは好きかな?」
「……屋敷にありましたので」
「調律ができたら、演奏を聞かせてくれないか?」
「え?」
「調律は休校期間にされているものだから、入学前に済んでいただろうに。この短期間でずれたということは、最初から少しずれていたんだろう。それに気づいたのは君が最初だ。そんな耳の良い君の演奏を聞いてみたいと思ってね」
「恐れ多いです」
「……君は少し自分のことと過小評価しているのかな。それはよくないよ」
……どういうこと? どうしてそのようなことをアキ様がいうのだろうか。
「約束だよ」
そういい残されて、アキ様は音楽室を出られた。
……。
……どうしましょうか。
ねえ。
なあに。アンゼリカ。
アキ様はどうしてあんなことおっしゃったのかしら。アキ様がわたしを評価など。
……記憶見る?
少しだけいいかしら。
はーい。
……そう。このげーむとやらのとおりなら、あの方は楽器がお好きで様々な楽器を習われているのね。で私の授業の演奏について人づてで聞いていたと。
うん。アンゼリカの耳には入っていなかったけれど、アンゼリカ無意識に、音が違うのが嫌で、なるべく音のずれがわかりにくいところ鍵盤で弾いてた。あれってその場で作曲してたよね。それで、聞いたことない曲だなってみなさんなったから、話に上がったみたいよ。
そうなのね。……アキ様。演奏の約束をされていったけれど、練習しないとだめね。ひどいものをおきかせするわけにはいかないから。
調律が終わるまでにアキ様にお会いする機会はあるのかしら。
アキ様とお会いする機会が多い場所はあるよ。そこに行くと会う可能性はあるけれど、絶対じゃないし、他の方に会うこともある。それはアンゼリカ次第かな。
わかったわ。
しばらくは中庭でに読書は控えるわね。あそこは、ジル王子とお会いする確率が高いから。
気づいてたんだ。
ええ。あまりお会いするのはよくない気がしているの。……王妃候補とされている方がいることも耳に入っているから。
アンゼリカはとても周りが見えている。お三方が一緒にいるところに絡んでいく三人の令嬢たちが少しだけ厳しい視線をアンゼリカに向けていることにも気づいている。
その令嬢たちの家柄はお三方にとても合っていて。大臣、有名商家、古くからの名家。令嬢ご自身もお美しいし、社交界の場での立ち振る舞いを幼いころからしっかりと身につけてこられたんだろう。お見かけするときはどんな時だって、欠点などないというほどに堂々と、自信たっぷりで。
強いんだろうなと思う。まあそれぐらいじゃないとやっていけないだろうけれど。
さて。アキ様ルートの悪役令嬢はリーリン様。古くからの名家のご令嬢。学年は一つ上。少し憂いの帯びた表情で、目を伏せておられることが多いけれど、あのお二人と一緒にいるぐらいには、柔い方ではない。実際なかなかしんどかったしね。あのキレイなお顔で。
アンゼリカはそれに耐えられるのだろうか。多分あの子のことだ。記憶の整理の時に見ているはず。
「あら。ピアノの練習?」
「ええ。ああ。そうだ。……お母様?」
「なあに?」
「お母様の好きなものはありますか? それを練習しますわ」
「あら。……ふふふ。そうね。ならこれなんてどうかしら」
調律ができるまでの間。演奏の日までの間。
アンゼリカはアキ様に図書館で二度お会いした。といっても、挨拶をした程度で、それぞれ勉強していたのだけれど。
その時アキ様はジル様とジエラ様も一緒だった。お三方でおられるのはもう見慣れた景色で。なのに、それをみて色めき立つ図書館に少しだけ、私たちは目を閉じた。
過小評価。
その言葉がずっとアンゼリカの中で引っかかっていた。
ピアノの事はいいようだけれど、それ以外の点でもしアキ様がなにか評価をされているのであれば、それに恥じないようにしたいと。といってもアキ様の評価が高いものだった場合、そこまでにはならないにしろ、ひどいものだと思われないように。
まあ。そもそもちゃんと勉強しないと置いていかれるのがこの学園。ゲームだとそういうところ流されてしまうから私の記憶は使えない。ルートが成功したとして、宰相の妻だ。アキ様の横に並ぶにふさわしいものがないと。悪役令嬢にも勝てないしね。
なぜか調律ができて、ピアノを使っていいと。音楽室を開けていると先生から声をかけられた。……アキ様がなにか言ったのだろうか。ゲームだとお知らせって感じで音楽室入れるってマークだけ出てたから。
練習した曲は完全に指が覚えている。
楽譜通りに。
テンポもペダルも、記号も。どうやって演奏するのか。ちゃんと入っている。
ふう。
実際演奏するのはアンゼリカだっていうのに。私じゃないのに緊張してきた。
「ああ。来てくれたんだね。ありがとう」
「……先生からうかがいました。アキ様が私に伝えるようにと?」
「ああ。あの日の次の日が僕たちのクラスで音楽の授業があってね。その時にお伝えしたんだ。一年生の授業もあったと思うがと。そうしたら、先生が君のことを話してくれたよ。即興で曲をこしらえた生徒がいたと。その生徒の演奏を聞いてみたいので、調律ができたら声をかけてほしいと。君にもと」
……ああ。練習しておいてよかった。
「早速お願いできるかな」
そう笑って、椅子をすぐ横まで持ってこられて。
「……失礼いたします」
……。
…………。
………………。
「……楽譜どおりだね」
「え?」
ぼそっとつぶやかれた言葉。
「……ああ。この曲は僕も好きでね。練習したよ。楽譜に記載されている指示通り君は完璧に演奏した。すごいよ。これほどまでに狂いもなく。……ねえ」
「はい」
アキ様は横座ってこられて。
「君ならこのあたりはどうする?」
そういって、演奏した曲の数小節を弾かれて。
「序盤で終盤にも同じように繰り返される。楽譜の指示ならどちらも淡々とって感じだけれど。曲の空気を変えるならこことかどう変えるかな?」
……。
何がしたいのだろうか。
曲の空気を変える?
……。
「……そうですね。空気を変えるですか。……それなら」
わたしの思うように演奏していいのなら。
わたしなら。
作曲家のことを考えないのであれば。
……ここは少し跳ねようかな。
ここは一オクターブ変わるだけで音は同じだから、片方はピアノでもう一方をフォルテで。
ふふふ。楽しい。
人の前で演奏するときは、自分のことは出さないようにしている。楽譜にある指示どおりに。
「ふふ。いいね。全く違う曲に聞こえるよ」
弾き終わったわたしに、にっこりと笑いかけてくださった。
「演奏にはその人が出ると僕は考えています。楽譜どおり演奏したのは、それは作曲家に対しての敬意かな。……二回目の演奏は、君の感情が見えた気がするよ。楽しくて、嬉しくて。強弱の抑揚もしっかりついていて、物語を感じたよ。君はとてもきれいだ」
そういうアキ様の笑顔のほうがきれいで。
まぶしくて。
「僕はチェロが一番好きなんだ」
そうおっしゃってケースから取り出されて。
「一緒に演奏したいな」
……なんの曲?
チェロとピアノの二重奏の曲って何があった?
頭をフル回転させてわたしの知る曲で……。
「ふふふ」
多分この曲だろう。
「うん。正解だよ」
アキ様のチェロに合わせて鍵盤で指が躍った。
アンゼリカ。どうだった?
楽しかったわ。
アキ様。チェロとってもお上手で。その後もお話したけれど、とっても楽しかった。
うん。楽しそうなの伝わってきた。
アンゼリカにとっていい時間だったね。
ええ。楽しかった。
けれど視線が気になったわ。
演奏中に受けたのだけれど。
……さすがだね。うん。その視線は気のせいじゃないよ。
記憶にかかわるかしら。
うん。その視線はリーリン様のもの。アキ様の婚約者になりたいと考えられている方。
リーリン様……。
あの方を敵にまわすのは避けたかったけれど。
アンゼリカは貴族の家のつながり、頭に入っているの?
有名どころだけね。
でもわからないわ。
リーリン様には婚約のお話がたくさん来ていると耳に入っているけれど。それらをお断りされているというのも。アキ様のことを慕っている……というのは聞いたことはない。まあ。貴族の令嬢であれば、心の内をさらけ出さないのは挨拶と同じくらい当たり前のことだけれど。
リーリン様がわたしに何かしてくるということはあるのかしら。
……ええ。嫌がらせがあります。
記憶。……見る?
……そうね。確認するわ。
その前にわたしがそれに耐えられるかどうかあなたは不安がっているようだけれど。
わたしそんなにも弱くないわ。安心して。
まっすぐ私を見ている。
その眼は覚悟の眼ね。
アンゼリカ。
なにかしら。
あなたの幸せって、お母様と家を守ることよね。
ええ。そうよ。
うん。なら。
あなたが嫌がらせに耐えられようと、耐えられまいと関係なく。
あなたがそれを求めようと拒絶しようとも。
関係なく。
あなたを守るわ。