「第八話」奈落にて、眩き光
妖気は消え、しかしそれを上回る殺気が周囲を覆っていた。
それは先程まで黒い靄に侵されていたシュラのものである。彼は無感情から一転、自らの意志を取り戻しても尚、戦うという選択肢を曲げなかった。そこに後先を考える余裕はなく、ただ目の前にぶら下げられた希望に、必死だった。
「お前を殺し、私はその首を持ち帰る……母上はそれで認めてくれる。認めてくれるんだ!」
「──」
その様子に、擦り切れて溢れ出た心に、イフウは声が出なかった。なぜならその境遇を「もしも」の自分に重ねてしまったからである。自分は、とても恵まれていたと思う。だからこそ、いつまでもいつまでも怖くて仕方なかったのだ。努力が報われないこと、認めてくれないこと、全部無駄だったと自分自身で思ってしまうこと……それはとても辛いことで、死ぬほど苦しい。──諦めてしまったほうが、楽なのに。
「殺す、殺す!」
シュラは今にも死にそうだったが、それでも刀を離さなかった。行く末など分かっているくせに、それでも尚、イフウとの対峙を選んだ。認められるために、無価値ではないと叫ぶために……最後の最後まで、戦うつもりなのだ。
「……はぁ」
イフウが振り返る前に、ホムラが言う。
「どうせ止めても、やるんでしょ? ほんと似てるよ、そういうお節介なところ」
「……ありがとう」
イフウは小さく感謝を述べ、再び刀を握りしめる。その手に刻まれた痣は先程よりも広がっており、彼は本能的に死が迫っているのを感じていた。今すぐではないものの、確実に命を刈り取る死が。──しかし、それがどうした?
「死ねぇええええええ……!」
失望、その一言につきる。力強い踏み込みは弱々しく、肌が痺れるほどの気合は声に無かった。覚悟も決意も何もない、失意と絶望から繰り出される太刀筋は、穏やかなはずのイフウの心を大きく揺さぶり、煮えたぎらせた。
「くそっ、なんで……なんでお前なんだ、なんで私じゃないんだ! 家臣共も父上も母上も、どうしてお前ばかりを見る! お前が寝ている間も剣を振った、お前が水を飲んで木陰で休んでいる間も走った! それなのに、それなのに……!」
恨み言のように思えるそれらは、しかしイフウにとっては悲痛な叫びだった。本音こそ奥底に隠れてはいるものの、彼が取っている行動が、あまりにも渇望していたのだ。それがなんとも言えない怒りを彷彿とさせ、振るう剣を加速させていた。
「お前も私を見下しているんでしょう? 努力してるくせに成果が出ない、無様で笑える敗北者だって!」
その一言で、イフウの堪忍袋の尾は切り裂かれた。彼は抑えていた怒りを剣に乗せ、凄まじい速度で刀を振った。攻撃が来るより前の攻撃、防御も迎撃も許さない速度は最早、常人には捉えられない神速の技であった。
「がっ……!」
一太刀で五つの斬撃。視界に留まることすら許されない剣技は、両脇腹に二発ずつ、足に一発……加えて柄の裏側による打突が鳩尾へ。姿勢を完全に崩したシュラの胸ぐらを即座に掴み、力いっぱい投げ飛ばした。
「くっ、ああ……ううっ!」
ゴロゴロと転がり、荒い息を吐きながらもシュラは起き上がった。しかし、既に彼は立つことができていなかった。度重なる疲労、流しすぎた血は今も滴り……彼の白い肌を赤黒く染めていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……はぁ、はぁっ」
いいや、それ以前の問題だった。彼はもう戦えない、戦う理由も気力も全て燃え尽きてしまった……実力で勝つことは愚か、誇り高き敗北で幕を閉じることも叶わない。どの道を進んでも行き先は奈落、そんな道を進むだけの強さは、既に無かったのだ。
膝から崩れ落ちた彼は、とうとうその手から刀を離した。
「……ずっと、兄上の背中を追っていました」
彼の口からこぼれ出る言葉は、どれもこれも本音。
イフウはそれを黙って聞いていた。眉間にしわを寄せ、瞳孔をこれでもかというほど広げ、シュラを睨みつけながら。
「天才、生まれながら剣聖と呼ばれ、初代棟梁であるハクラの生まれ変わりとも言われた貴方が、私にとっては眩しくて仕方なかった。──いつからなんでしょうね、貴方へのこの想いが、嫉妬とか劣等感でしか無くなってしまったのは」
シュラは、顔を上げなかった。俯き、肩から滴る血が地面に染み込む様を、ただ無感情に眺めている。
「貴方を殺したのも私、竜の封印を解くことになったのも私のせい……そして、真っ向勝負で勝てなかったのも、弱い私の実力不足」
「違うよ」
静かで冷たいイフウの声に、シュラは顔を上げた。そこには片膝立ちで、わざわざ自分に目線を合わせている兄がいた。その顔は実に悲しげではあったが、しっかりとした怒りが籠もっていることが分かった。
「シュラ、お前は何も分かっていない。周りの人も、僕のことも……そして何より、自分のことを全部分かってる気になってる。そういうものだって決めつけて、勝手に自分で決めつけてるんだ」
ああ、どうせ自分への恨み言だろう。
「誰も褒めてくれない、認めてくれない……そんな風にでも思ってたんじゃないか? お前は昔から人と関わるのが苦手だし、ネガティブだから」
──そう思っていた彼の予想は、大きく裏切られることになる。
「だから、お前を一番近くで見てきた僕が言ってやる。──お前は、弱くない」
放たれたその一言は、奈落に向かっていた彼に一筋の光を見せた。
全く持って頼りない、しかし手を伸ばさずにはいられない……小さく美しい、眩い光を。