有意の機会に無為の想いを
まずは結論というか、趣旨から書き始めると、今回の随筆には意味らしい意味というものが伴わないようにして、ただひたすらに無為としてエピソード…… 日本語で言うと、なんだったか(※)。これを書き記すこととする。すなわち、叙情。
とはいえ、普段から私が書く、私にとっての「好ましい文章」というものは、気取って小難しく他者を煙にまき、「一体こいつは何を言っているんだ」という感じの、印象よりも言葉の一つ一つを噛み締めるためのものである。要はスルメ。美味しいよね、スルメ。
なんにせよ、普段書くものは、叙情とは対極的。想いを語るための言葉ではなく、想いを生み出し、想いが生み出した概念をこそ、私は詠う。そうやって生きてきた。
だが、故にこそ。普段はしないことというのは、いざ必要になったときにだけ、さらりと片付けられるようなものではないので、非凡ならざる凡人は、必要になる前に練習をしておくほうが良いのである。
必要になるかどうか? まぁ、ならないんじゃないでしょうか。できると楽しい、とかはあるかもしれませんけど、やらなければならないことを頑張るよりも、やらなくていいことを頑張る方が気楽でしょう? なんせ、最終的にできなくてもいいので。
と、いうわけで。ここからが地獄の開幕だ。
まぁ、普段から私の文を読んでいる人なら、なんだかんだ堪えうるんじゃないでしょうか知らんけど。
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積み重ねた日々の咎、夜を嫌ったこの体が、陽の光に満ちた昼に生きることを許さず、微睡みの中へと誘う、休みの日。気持ちの良い休みというものは、日々を頑張り生きたものへの褒美でした。罪深い日々を送る私には、そんな褒美は与えられることはなく、心の奥底には罪の意識が根深く刺さり、何をしても報われない、そんな想起を与えるのです。
ですから、きっと。ここ暫く、左足の先に根差した痛みも、私の咎に由来したのでしょう。辛い痛みは歩みを止め、外へ出るという行為そのものを咎めます。それでも、為さなければならないことがある。それは、儚くも罪業に抗う、矮小な私の矜持でした。
小さな痛みに耐えながら、人の罪に淀む川を渡り、因果を運ぶ鉄の道へ。昔は、鉄の道を力強く征く、かの車も大好きでした。その憧憬は、今も儚く記憶に残っています。
――がたん、ごとん。がたんごとん。心に響くその音は、人の意志が奏でる音色。強く命を示すその音色に、日々に疲れたものがひかれてしまうというのは、逃れ得ぬ宿命なのかもしれません。
みなさま。強いものに近付くのは、危ないのです。お忘れなく。
辿り着きたるは、大きな建物。矮小な私には、天を衝くようにも感じられる大きさの建物ですが、とはいえ尖塔というわけでもございませんので、天を衝くよう、というのは少々違うかもしれません。
私は、天を仰ぐのが苦手でした。殊に、見上げて建物の屋上を見ることが。天を仰いで建物の屋上を見るとき、私は足元が揺らぐように感じるのです。
――ああ、あんなところから落ちてしまってはひとたまりもない――
私は、もちろんそこにはいません。しかし、私の心は果たしてそこにあるのでしょう。落ちることはないのに。屋上より地を見下ろしたわけでもありません。それでも私は、そこから落ちる想起からは逃れられないのです。
視界に入る程度ならば大丈夫ですが。意識的に「そこ」を見るのは、未だに恐ろしく。伏し目がちに生きるのも、それが理由だとは申しませんが、要因の一つではありました。
とはいえ、目的地はそもそも地下でした。高く大きな建物は凄いものですが、地下にある建物というものも、誰かがそれを掘って作ったものなので、偉大なものだと思います。もとより、社会に凄くないものというのはないような気もいたします。自然にただそこにあるものも、人間社会に維持された超自然的な草花も、そして人も。どれひとつとして、奇跡に由来しないものは、ありません。
そこに意味があるかどうかは、意味を見出されるかどうかの差でしかなく。あることも、ないことも、等しく全ては奇跡の上に成り立つ「それ」でございました。
地下にある飲食店にて、兼ねてからの友人ふたりと合流し、片方とは久々の再会と、その息災を祝して乾杯を。グラスを満たす、黒褐色の弾ける水は、ただ甘美で。大人の生の苦味など感じさせないその選択は、果たして責務を正しく果たす、責任ある大人達のものでした。
罪深く怠惰な私は、そこに蒸留酒を混ぜたものをいただきましたが。友人ふたりは、既婚者。私は、独身者。あるいは敗北者。
在り方で既に負けているならば、せめて選択だけでも比して大人らしく。
……そういう考えは特になく、一杯目だけはコークハイを呑みました。その後は全部コーラでした。全員。
ですが、やはり飲み比べればわかります。単純に味だけであれば、正直なところ、コーラのほうが遥かに甘美であり。そもそも酒は、私は別段美味しいなどと思って飲んでいることはないといえます。
それでも、飲めるときは、飲む。そこにあるのは望みではなく、ただ「意図」でした。かくあるべしと定められた、その場の正しさに縛られ、ありもしない責務に臨む私は、どう考えても正しくはありません。
だから、これだけは。誤解のないように言っておきます。この随筆において、この部分だけは、ガチの妄言です。叙情とか言いながら、思ってもないことを言うのはどうなんだ? 本当なのは、コーラのほうが好きというところだけ。
閑話休題。そこで供される、メインの食材は、かの大海を力強く泳ぎ続ける、大型の奴。その脂身は甘美にとろけ、至上の旨味のひとつであります。山のように盛られた、ねぎとろの鉄火巻も、その刺し身も。間に差し込まれた赤ウインナーも、全てが美味しゅうございました。
……食レポ? 才能ないんで無理です。そのうち、気が向いたら頑張るかもしれませんけど。飯の感想なんて「美味かった」以外になんか要るか?
かくして、楽しかった束の間の休みは終わり、明日からはまた日常へと舞い戻っていくのでございます。羽を休めるとは言いますが、目的をもって何処かへと発ち、精力的に動くことにも安息はあるもの。きっと、心というものも、普段は忙しなく動いており、社会の軛から放たれて、やっと安らぐものなのでしょう。
見えぬものを見据えて正しく取り扱うのは、非常に困難でございます。見えていても、容易く失敗しますからな。傷付いても、誤りを見なしても止まることはできず、一度決めたらば走り切るしかない。そういうこともありましょう。
それでも。未だ取り返しが付く間は、たとえ中途の成果を非難されようとも、立ち止まる方がまだ良い結果に繋がることもあるでしょう。結果を見たくないから、死が確定するまで走り続けるのは、大変ではございませんか。
……ちょっと待って。何の話だ? 罰則にて、ここで強制終了となります。それでは、お疲れ様でした。
ちなみに、超どうでもいいんですが、この文を書いてる最中、地下鉄の逆側の路線に乗ってたらしく、若干時間を無駄にしました。こういうのも、人生の彩りですよね。そうだと言ってよ、みんな。
※エピソード:挿話とか呼ばれるもの。自分の場合は長編のシリーズに並行して書いている短編がそれに該当すると言えそう。