世界と環境と自分とは分離できない
自分の碁がどういうモノなのか考えるのは、自分探しによく似ていた。
白心は第二局のみちる戦が終わってから、考えていた。
『自分の碁を見つめ直してみるといいだろう』
そういったのはみちるの祖父、桃下台茂。現役プロとして活躍した元棋士の言葉は重く、白心の心に沈殿したままだった。
「とやっ」
と声がして、白心の皺の寄った額に指が当てられる。
「白心君、今日は一人で考え事かい?」
部室でひとり寄付並べをした碁盤を見つめていると、みちるから声をかけられた。
「あ、うん……前にみちるさんのおじいさんに言われたことを考えていたんだ。自分の碁のこと」
白心は額を手で押さえながら、そう答えた。
自分の打った碁を見て、いつものように良い手悪い手と最善手の探求をするのではなかった。
その碁の中にある自分の碁を見つめるのは、想像以上に難しかった。
自分は何を思って、何を大事にして、何を正しいと感じているか。
自分の碁の利点と、欠点は? 自分が打つとき何を信条にしている?
将来的な展望はどうなってほしくて、そのときの自分はそのために何をする?
そんな風に、一つ一つの手でそんなことを見つめ直す。
そうやって見つめた先で答えを見つけたと思えば、それは腕の中をスルリと抜けていく。
何かつかめそうでつかめないその感覚は、白心を悩ませていた。
もうすぐ、自分にも部をかけた戦いがやってくる。
そう思うと急く気持ちをあざ笑うように、時間は通り過ぎて行く。
そろそろ次の対局が設けられる時期だった。
「それなら、誰かに相談してみると良いよ。私はバカだから、あんまりうまく言葉にできないけど……みんなきっと相談に乗ってくれるよ。そろそろ広瀬君が掃除終わってくる頃だから、一緒に相談してみようか」
「……そうだね。『一人で悩んでいてもわからないなら誰かを頼ればいい』」
白心は誰かの言葉をそのまま口にする。
それは彼を送り出した、彼の最も尊敬する人物の言葉だ。
みちるは当然そのことには気がつかない。
「お、ちょうど来たね」
部室のドアが開いた音がして、みちるは振り返るがそれは目的の人物ではなかった。
「なんだ、トモセンセーか」
「なんだとはご挨拶だな。みちる、お前のテストの点数を大声で教えてやっても、私は別にかまわないんだぞ?」
ドアを入ってくるのは智香だった。入ってくるなり、生徒に容赦ない言葉をかけながら立て掛けられた折りたたみの椅子を持ち出して腰掛ける。
「わわ、それは勘弁して智香先生様!」
「どうしようと私の勝手だ。せいぜい私の機嫌を損ねないように腐心することだ」
「不信?」とみちるは疑問符を浮かべるが、智香はどうでもいいという様子だ。
「先生」
みちるが会話から離脱して、腐心の意味を考えているうちに白心は智香に声をかける。
「ん? どうした、大鳳が私に話しかけるなんて珍しいな」
この人は危ないと日頃から白心は智香を警戒しているため、できるだけ不干渉を貫いてきた。
しかし、囲碁のことならこの人物を置いて他にいない、というほどの実力者だ。
白心は智香の力が何か得体の知れない、圧倒的なものであることは身をもって知っている。
「先生は、僕の碁は何だと思いますか?」
白心がそう口にすると、ものすごく抽象的な質問になってしまった。
智香は少し驚いたように目を見開いたかと思うと口を開いた。
「……神野エリの碁を打ち倒すモノ、だな」
一瞬、智香の表情が変わる。この表情は以前見た、と白心は目の前の女教師に既視感を覚えていた。
目の前の獲物はその視線を浴びただけで動けなくなりそうな、冷えた瞳。
口元は不適につり上がり、まとわりつく威圧感。
「ぁ……」
思わず白心の声が漏れる。
そして徐々にその異質な空間が消えていき、いつも通りの部室にもどる。
「ま、それじゃ、お前の質問に答えられてないだろうな。できるだけわかりにくく、ヒントだけは教えてやるよ」
と言う智香は普段のケラケラと笑う鬼畜顧問の姿に戻っている。
「お前は今、自分の碁をどう思っている? おそらく『真っ白で個性のない碁』だろう。うん、図星だな」
智香は白心の表情と会話しているかのように、一人でどんどん話していく。
「それでお前は、この真っ白な碁をなんとか色の着いたものにしようと思っている訳だ。自分の碁に見えるわずかな毛色を見つけてな。だけどそのわずかな毛色が見つからないで困っている、そうだろう? まあ、それが無駄だったとは言わないよ。実際そうやって自分を見つけて行くのも、よくあるやり方だ」
だけどな、と智香は碁笥から白石を一つ取って続ける。
「この碁石は白だ。いつまで見続けてもこの白石が黒石になる事は無いよ。だけどこうして碁盤に打ち込めば、終局したときには形が出来ている」
智香が碁盤の中心、天元へとその白石を打ち込む。
「白石だけが天元にある棋譜はない。それは先手の黒石が先に必ず打たれるからだ。囲碁って言うゲームはな、二者がいて、白と黒があって初めて成立する。でも白と黒で盤上を色付けしているわけじゃない。それなら石が二種類無くても良いんだ。囲碁って言うのは一つの盤という場所を白と黒で分け合って一つの形をつくることだ。盤上にある二色の石の形こそがお前の碁であり、対局者の碁なんだよ。白石と黒石を別に分けて考えるな。大鳳白心と黄泉智香が対局しているとき、お前は私と、存在を共有する」
囲碁とは人生である、と碁打ちはそんなことをこぼす事がある。
何も無い所から始まり自分と自分以外のすべての環境が、どう関わっていったかを跡となって刻んでゆく。過去は取り返しがつかず、未来の可能性は無限のように開けている。
その無限の道のどれを選択しても未来は続くが道理に従わない選択をすれば、環境が自分を押しつぶす。
終わりに行けば行くほど、可能性は少なくなる。
やがて一本道を歩き始めて、その魂尽きた時に満足いくものであれば後腐れなく人生は終わり。そうでなければ後悔に胸を焼かれる。
人生は碁盤で、想像もできない程の多くの可能性から一つを選択して石を打つ。マッタは聞かないし、先の展開は想像もできない。
智香が言う事を人生に置き換える事さえできる。
『世界は自分と環境の二種類に分けられる。人は人生という限りある一生を、取り巻く環境とともに生きる。であるならば人の人生は、自分と環境を分ける事はできない。自分と環境がお互いに存在を共有するもの、それが自分であり、人生なのだ』
ほとんど哲学だ。
抽象的すぎて、白心には理解が及ばない。そんな白心の様子を見た智香は、一つため息をつく。
「これじゃ私が痛い人じゃないか。仕方が無いから、もっと分かりやすく教えてやる」
と最後に一言。
「お前は真っ白なんだから、周りの色をよく見ろ、ってことだよ。広瀬のやつもそろそろだろう、来たら打っておけよ」
これだからバカは困るよ、と毒を吐きながら智香は立ち上がり部室を出ていくのだった。
第三局、五月二十四日
空は清々しいほど晴れた快晴。休日の朝の空気は透き通るように澄んでいた。
そんな日、社高校囲碁部の面々は、三度目の戦いにいつもの碁会所『楽』に訪れていた。
「さて、今日の対局で三局目だ。ここで負けたら跡が無いぞ、おい」
ケラケラと廃部の危機にある囲碁部の顧問、智香が楽しそうに部員たちに話しかけていた。
先程からずっとこの調子で、顧問の悪態に慣れている彼らであってもさすがにこの状況に緊張していた。
部員の内半分、六花とみちるはそれぞれ対局を終えているため、もう見守るしか無い。
そんな女性陣と違って白心と部長広瀬は緊迫感に満ちていた。
次の対局者が誰なのか、智香の独断によって対局者が告げられる。
「今日は、ウチのエースで部長の広瀬蝶々に打ってもらおうか」
「うす」
広瀬は前に出て、すでに待ち構えるエリの正面に立つ。
「今日は無子局、互い戦にしようか。手番はニギリで、コミは五目半だ」
互い戦、それは棋力が同程度のもの同士で行う対局だ。置き石のハンデなしで、先番もニギリと呼ばれるランダムな選択方式。プロに互い戦、それはつまり。
「ちょっと待って。互い戦はいくらなんでも言い過ぎよ、智香。悪いけど、弱いものいじめをする趣味はないの」
部長の広瀬をプロと同等、エリと同格の棋力だと、智香は言ったのだ。
だが、そんなアマチュア、それも高校生が囲碁部にとどまっているなんて、常識では考えられない。エリは当然、それに反発する。
「いや互い戦だよ、エリ。それに、お前が反論するのはおかしい。反論するならこいつの方だろ」
これは囲碁部の存続をかけた対局。互い戦でと言われて、真っ先に反論するべきは広瀬の方だった。
「神野エリ、悪いけど今回は俺との互い戦に付き合ってもらうよ」
「なっ……!」
その広瀬の方が何も言わなかった。
「なにを言ってるか分かっているの、あなた!? 私に互い戦で勝つって言ってるのよ?」
エリには目の前の男が信じられない。それがただの意地でない事は、広瀬の顔を見れば明らかだったからだ。
「勝てるかどうかはともかく、センセーがそう言うんだ。仕方ないだろ」
当たり前の事のように、広瀬蝶々はそう言って碁盤の前に座り、碁笥を開く。
「ほら、ニギれよ」
「……私は知らないからね。手加減なんて器用なマネできないんだから」
そう言って再び椅子を引いて腰を下ろす。
席に着き碁盤を目の前にした時は、すでに先ほどの憤慨がなかったことのように冷静な顔つきになる。プロでも難しい心を落ち着ける術を、エリはマスターしていた。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
二人はニギリを済ませ、広瀬が黒石の碁笥をエリが白石の碁笥を手元に置いて、対局が始まる。
第三局は緊張感漂う中、始められる事になった。