死なない意思
そして、新入部員エリ獲得のための第二局の日がやってくる。場所は先日と同じ碁会所で行われる事になった。
第二局の対局者として指名されたのはみちるだった。
「みちるは二子で打ちな」
智香が碁盤の星へ二つ、黒石を置く。
「二子局、コミ半目で良いな?」
すでに碁盤の前に座るエリに今度は確認をする。
「二子? その子、そんなに打てるの?」
「ああ、おそらくこの条件でお前と互角だよ」
プロと打って二子というのはアマチュアでもかなりの打ち手という事になる。高校生でその実力の碁打ちはそうそういない。
「それじゃ、いっちょ頑張ってくるねー」
そんな緊張感のない言葉を部員に向けて、エリと碁盤の対極に座る。
「エリちゃん、今日は負けないからね」
「……まあ、お互い頑張ることにしましょ」
みちるのゆるーい宣戦布告に少しリズムを崩されながらも、エリはそっけなく返事を返す。
「よろしくお願いしまーす」とみちる。
「お願いします」とエリ。
各々で対極的な様子を見せながら、対局が始まる。
しきりの智香もエリの第一手を見届けてその場を離れ、囲碁部の面々が二人の対局を碁盤に再現して検討している部屋の隅へと腰を下ろす。
「あら、珍しいお客がいると思ったら、智香じゃない」
そう言って、囲碁部の面々にかける声はカウンターからだった。前屈みになった二十代中盤と言ったところの女性がそこにいた。
「ああ。邪魔してるよ、旧友」
カウンターの方を見る事もなく、智香は返事をする。
「ひどいなぁ。久しぶりの再会にもっと感動があっても良いと思うの、私」
そういって女性はカウンターから出て対局を再現する碁盤に近づいてくる。彼女は智香の元同級生、高校時代の友人だった。
「先生、知り合いなんですか?」
部長の広瀬蝶々は部員の疑問を代表するように、智香に質問をする。
「ただの同級生だ。そんなに珍しいものでもあるまいし、たまに会ったからと言っていちいち感動してやれるか」
「なになに、先生とか呼ばれちゃって。本当に教師やってるんだ、智香」
元同級生の彼女はやっぱり信じられない、と言いたげに驚いてみせる。
「自己紹介が遅れたけど、私は青木薫。この店の管理をしているわ」
「管理といっても、昼はほとんど空けてるけどな」
それゆえ昼の碁会所はお客の良心で成り立っている。カウンターに集金箱を設置することで碁を打つ場所を提供している。
実際には席料を払う事無く碁が打ててしまうのがこの碁会所だ。
カウンターには「初めての方は無料」と書かれているため、前回は囲碁部の面子もタダで利用する事に納得していたのだが。
先生、と広瀬が智香に耳打ちする。
「今回の席料、俺たちまだ払ってないですよ。払わないとマズイんじゃ……」
今回の入店時に智香が払わなくていい、と言ったときはてっきり顧問として払ってくれるのか、とにわかに期待した広瀬だったが。
「薫、こいつらの席料いらないよな?」
「ええ。ここはそういう碁会所だから」
そういう、という内容が広瀬にはわからない。広瀬は納得いかないし、席料を払わないでいることに罪悪感もある。だから薫が言う「そういう碁会所」の意味を尋ねる。
「ここは、利益目的の碁会所じゃないのよ。一般的な席料の半額以下だし、払うも払わないもお客さん次第。そのかわり、よく通ってくれるお客さんには初めての方の案内とか、頼んだりしてるの」
「じゃあ、この店は一体何のために……」
広瀬は不思議そうに呟いて、薫はそれを見て少し微笑む。
「この場所はね、今の閉鎖的な碁会所のスタイルに反逆してるの。この国の今の囲碁界は衰退を重ねて、一番囲碁が流行った一部の世代がようやく支えているようなものなの。若い打ち手はどんどん減っているし、碁会所もだんだん高齢の打ち手の独占場になっている。この悪循環がこの国の囲碁人口を絶滅に追い込んでいる。だから……」
「だから、私たちがここを作ったんだ。金は私がほとんど出したがな」
「もう七年も前になるのね。ここを作ってから」
ずいぶん遠くまで来たわ、と薫はつぶやく。
彼女たちがこの碁会所を作ったのは高校の卒業式の当日だった。
当時からふてぶてしく、囲碁の棋力も圧倒的な智香は、その財力も普通ではなかった。少なくともビルの一室を簡単に買い取るくらいには。
普段から彼女たちの話す理想の碁会所像が実現したのが、この場所だ。所有権は智香が持っているが、実質はこの碁会所を立案した彼女たちの共有財産だった。
「ただ、私は碁が打てないんだけどね」
と薫は誰にも聞こえない声で自白する。
「とにかく、そう言う訳だから金はいらん。だが払いたいなら止めはしないぞ、広瀬」
「いやいや、高校生の財布事情はいつだってひもじいんです! そういうことなら、お言葉に甘えます。ありがとうございます、薫さん」
「いえいえ、気にしないで」
広瀬の言葉に薫は笑顔で応える。
彼女の笑みはやわらかく、女性の可愛らしさが込められている。広瀬はそんな笑顔に顔を赤らめ、あわてて話を今日の本題へと戻す事にする。
「と、とにかく。今日はみちるの碁ですよね、先生」
「黙せ。猿みたいに顔真っ赤にしやがって、誤摩化しに私を使ってんじゃないよ」
そんな広瀬の意図は簡単に見破られ、ただただ智香に打ちのめされるのだった。
部長広瀬たちが碁会所の話を聞いている最中もみちるたちの碁は進んでいた。
その様子を白心と六花が碁盤で再現をしていく。碁は少し難しい展開になっていた。
「みちるさんの石が分断されましたね。これを両方生きるのは難しい……」
白心は盤面を指差して考える。自分であれば、どうするか。みちるの祖父に言われたことを考えながら。
「私なら迷わずに小さいこっちを切って、碁を立て直すわ。まだ形成は悪くないし、流れをつかむチャンスを伺ってこんなところかしら」
六花は手元の碁笥から一つ黒石を取り出して、分断された一方を中央に向かって一間で打つ。碁の一手は一つの目的のために、複数の狙いを持った手を打つのが好手とされる。
そう言う意味では六花の一手は好手とは言えないものの、堅実で冷静な一手だ。
「俺なら、とりあえず様子を見たい。急いで分断された石を助けずにここを見合いにしながらこっちだな」
六花の打った石を取って、今度は広瀬が石を打つ。見合い、というのは「男女のお見合い」の意味ではなくて、一方を相手が打てば自分がもう一方を打つ、と言ったお互いにどちらから打っても同程度の展開になる二カ所のことである。
この見合い、という考え方は囲碁において重要な概念だ。
初級者、中級者はこの見合いという概念を理解して実践できるだけでもおそろしく有力なものになる。そう言う意味では、広瀬の手はある程度技術の高い手で、高い棋力の片鱗が見え隠れする。
「……大鳳、お前ならどうする」
智香が珍しく真剣な顔つきで白心に尋ねる。智香の中でもおおよそ答えが出ているようだったが、それは口にしない。
「僕なら……」
白心は考えるも、この展開に対する答えをしっかりと出せない。もちろん、六花や広瀬の手は考えた。白心にとっても悪くはないし、良い手であるとさえ思う。しかし、それは白心自身の解答ではなく、それ以外の答えも見つけ出せずにいた。
「僕の手は、わからない……でも」
みちるが次の一手を打つ音がして、白心は答える。
「みちるさんなら、次はこの手でしょう」
白心は黒石を盤上に打って言う。その手は、より危険な状態の小さい方の石を助ける一手だ。
「なぜそう思う?」
智香がすかさず尋ねる。
そして、六花がみちるの手を確認するため立ち上がる。
「前にみちるさんと打ったとき彼女の石はどれも、死なない気がした。大きな地を展開するような派手な打ち方ではないけれど、堅実に地を確保して全部の石を生きてしまうのが彼女の碁だと、そう思ったんです」
白心は、思ったよりもずっとその理由をはっきり答えられた事に自ら驚きを覚える。
そんなにも彼女の碁を理解しているつもりは、白心にはなかったのだ。
「見てきたわ。みちるの次の一手は……大鳳君の一手よ」
「なるほどな」
六花の報告に対するものなのか、それとも白心の答えに対するものなのか、智香は満足そうに頷く。
「一つ前のエリの手は、間違いなく、どちらかを殺すことを意図したものだ。この両方が生きれば、流れはみちるになるだろうな」
智香の手というのも、実はこのみちるの一手だった。
智香の実力は常人のそれではない。六子置いた三年前のエリに一勝と一引き分けた理由は、圧倒的な彼女の読みによるものなのだ。
その智香が、両方生かすこの一手を選択するという事は両方が生きられる、ということだ。みちるの選択はある意味、最善の一手なのかもしれなかった。
だが、エリもそのときの智香に引き分けたのだ。本来、智香相手に引き分ける事すら普通ではない。それが六子局だとしても、だ。
そんなエリが簡単に両方を生かし負けるなど、あるはずが無かった。
結果から言って、分断された二つの石は共に生還した。
そして白の中押し勝ち。みちるは、敗北した。
二つの石が生還した時、みちるに来るはずだった流れは追い風どころか、逆風だった。
今対局しているのは三年前のエリの実力を遥かに上回った、三年後のエリだ。
そんなエリが、智香と同じ最善手をやっと一度打つことのできる程度のみちるとは棋力が違う。
その後の打ち方次第で両方を生きる事はできても悪い状況、というのは存在する。
それが二子局を申し込む下手を上回る上手の実力だった。
ようやく生きた石は小さく生かされ、それを利用してエリは大きな利を得た。
終わってみれば、最後まで打たなくとも勝ち目のない碁に成り果てていた。
「ありがとうございました」
エリが丁寧に頭を下げる。折目正しく、終局後の礼節を欠かない。
「……」
エリは、目の前で呆然とするみちるの姿を見みながら、考えながら、自分の荷物を肩にかける。
自分が対局した相手が、対局後に信じられないという面持ちでいるようになったのは、いつ頃からだったろうかと。
「……エリちゃん!」
背を向け、碁会所を出ようというエリに声をかけるのは、先ほどまで呆然としていた対局相手だった。
「また、打とう! 今日はありがとね!」
清々しいまでに、みちるは屈託の無い笑顔だった。次に呆けるのはエリの方だった。
「……ええ、機会があればね」
最後にはその純粋な笑顔にエリも笑顔を返して、ふたたび踵を返すのだった。
エリは碁会所を出て思った。
「対局して、こんなに清々しい気分になったのはいつぶりかしら」