星屑の交換手
このクラスにはクズがいる。
人をいじめるクズ、私のようにそれを傍観するクズ。
お母さんは、
「いじめられる方にも問題があるのよ」
と言うけど、クズはそれを行なう者こそがクズだ。それを間違えてはいけない。
※ ※ ※
「おせーんだよ!」
一年二組の教室に、佐那の甲高い罵声が響いた。
花が叱られているのだ。
花はパンが二つ入ったビニール袋を、申し訳なさそうに両手に抱えて佐那に渡した。花は腰を引いてうつむき、佐那の機嫌を取るように口角を上げて、いかにも卑屈。佐那は不機嫌そうにビニール袋からパンを取り出して食べ始める。
でも、結構早かったと思う。
タイム、六分三十秒。
あ、あれはクリームパンだ。購買の焼き立てパンはすごく美味しい。真っ先に売り切れるのに、よく間に合ったと思う。
「私のカフェオレは?」
優奈が不満そうに言った。「……すみません」と、蚊の鳴くような声で花が謝る。花は、下げた頭の姿勢でまた購買に走ってゆく。
「なにあれ、幽霊?」
佐那たちが笑った。
今の、花に聞こえたかな?
花は頬のこけた青白い顔でいつもうつむいている。顔を覆うような長い髪型をして、でも「幽霊」はない。お使いも頑張ってるのに、どうして怒られなければならないのか。
花とは中学が同じだった。
静かな子で、私の知っている中三のときにはすでにいじめを受けていて、きっともっと前からそういうふうだったと思う。
高校に入学して、クラスメイトが入れ替わってもまたいじめられている。
中学の時に友達っていたのかな?
いつも一人で過ごしていて、中学のときは携帯電話の持ち込みが禁止だったけど、下駄箱の影でこっそり携帯を使っているのを目撃したことがある。そのとき、私はこう思った。友達が居なくて寂しくて、家族か誰か知らないけど、誰かと会話をすることで孤独を癒している……。
いわゆるパシリだけど、佐那たちに、どんな言いつけを命じられても花はそれを献身的にこなす。「のろま」「間抜け」「臭い」と、思いつくままの罵詈雑言を花に浴びせて、足を蹴られているのも私は見た。お菓子の袋を丸めてぶつけられたり……。
「やめて! って、言い返せばいいのよ。大きな声で。クラスメイトも聞いてるでしょ? 助けてっていう意味よ」
お母さんはそう言う。それがいじめ撃退法だって。
「ひかりが代わりに言ってあげたら? そのいじめっ子のグループの子に」
でも、そんなことをしたら、今度は私が花の代わりにターゲットになるかもしれない。
「いじめ、かっこ悪いと思います~」
とか、ちょっとおどけた感じで、いじめが発生した瞬間に手を挙げて言ってみるとか? そういう感じなら言えるかもしれない。そういう習慣がクラスにできたらいいのになあ、なんて想像したりはする。でも、騎士も紳士もこのクラスには現れない。みんな花を見て見ぬふりをするクズだから。
「買ってきました」
泣きそうな顔で花がカフェオレを優奈に渡した。タイム、三分四十五秒。
――赤いバンドの腕時計。
お母さんから誕生日プレゼントで貰ったこれで、また私は時間を確認した。「のろま」「ぐず」とか言われてるけど、ぜんぜんそんなことはない。語彙力がないから罵るときにそんなふうに佐那たちは言う。私はお弁当を食べながら優奈の反応に耳を傾けた。早いから、怒らないんじゃないかな。
「サンキュー」
優奈がカフェオレを受け取った。
ああ、よかった。程度の問題だけど、優奈は佐那ほど花のことを罵らない。さあ、花ちゃん、早く自分のお弁当を持って教室を出て行くのよ。花はいつも教室でお弁当を食べない。佐那たちの視界から逃れたいからだろう。
ベージュ色のトートバッグを手に、花が教室を出ていこうとする。それを見て、
「幽霊もご飯を食べるんだ」
と、佐那たちが笑った。
あっ――。と思って、私の頭の中が真っ白になった。
幽霊って、ついに花に聞こえるように言った。それって花の見た目のこと? 花がもしも自殺でもしたらどうするの? それとも死んでほしくて「幽霊」なんて言ってるの?
「いいかげんにして!」
私は、食べかけのお弁当を佐那たちに投げた。抑えのエースの、全力投球のように容赦なく。
がしゃっ
と、食べかけのお弁当箱が、車座に机を並べて座る佐那たちを飛び越えて壁にあたった。
半分残っていたご飯、だし巻き卵、食べかけのウィンナー、ブロッコリーとプチトマト。脳内のアドレナリンのせい? スローモーションになって、それらが散らばる映像が見えた。ああ、またやっちゃった……。お父さんに酷い事を言ってしまったのも、私の短気が原因だ。
肩をすぼめて、何が起こったのか理解できない佐那たち。
さいわい、誰にもあたってない。飛び散ったご飯つぶは誰かに付いたかも。
――お弁当を片付けなければならない。
そう思ったけど、私は花の手を引いて教室から出ていった。
中庭の花壇のところまで、花の手を握って連れてきた。
鼓動がまだ鎮まらない。とにかく落ち着こう。
花壇の脇に腰を掛けると、花も私の横に座った。腕時計を見たら、教室を出てから二分十秒。時間はいつでも進んでゆく。お弁当を投げたことはもう取り返せない。花を見たら、泣きそうな顔で眉を下げていた。
「手がすべっちゃった」
と私が言うと、花は不思議そうに首をひねった。手がすべってお弁当を投げる人なんていないか……。
「手がすべったというか、私ね、腕時計を見るのが癖なんだよ。しょっちゅう見てる。時計を見ようとして、手がお弁当にあたったの。それで飛んでっちゃった」
無茶な言い訳を聞いて、花はようやく少し笑ってくれた。そういえば「いいかげんにして!」と、佐那たちに言ってお弁当を投げつけた。どういう意味でああいうことをやったのか、さすがに花もわかっているようだ。
「ねえ花ちゃん、ああいうの、嫌なら嫌ってハッキリ言った方がいいと思うよ」
「なんのこと……?」
花は不思議そうに小首をひねる。彼女の名前を呼んだのは初めての気がする。友達からのアドバイス……という体裁で、私は「花ちゃん」と言ってみた。いつもは卑怯な傍観者のくせに。
「どうして佐那たちと付き合うの? 嫌なら無視すればいいのよ。佐那たちと一緒に帰ったりしてるでしょ?」
「でも……」
と、花はうつむいたまま動かなくなった。
「気分が悪いの?」
花はうつむいたまま首を横に振った。昼休み終了まであと二十五分。あ、あと二十四分になった。十分前には教室に戻って、中身と共に散乱したお弁当を片付けなければならない。誰か片付けてくれるかな? 私たちの味方になってくれるっていう意味で。
「ひかり……ちゃん」
花は恥ずかしそうに私の名前を言った。彼女が私の名前を呼んだのも初めての気がする。
「それ、可愛い時計……だね」
話題を変えたいのか、私の腕時計に顔を寄せてきた。
「この時計? お母さんに貰ったの。誕生日プレゼント。それより、もうすぐ昼休みが終わるから、お弁当、早く食べなよ」
私はお弁当が食べかけだったから物足りない。ポケットの粒ガムを取り出して、包みを開けてそれを口に放り込んだ。ミント味。食後に食べると口直しになっていいけど、お腹の足しにはならない。
「ほら、早く食べなよ」
もう一度うながすと、ようやく花は緩慢な動きで、教室から持ってきたトートバッグのファスナーを開けた。そして小さな水筒を取り出して、蓋を逆さにして中身をそそぎ、ゆっくりと口に含む。私はイライラしてしまった。
「お弁当は? 時間、なくなっちゃうよ」
「忘れたの」
「お弁当を?」
粒ガムはさっきのが最後だ。あと、ポケットにフルーツのど飴が二つあって、その小さな包みを花に差し出した。ピーチ味と青りんご味。なんとなく、受け取りを拒むかと思ったら、花は恐る恐るそれに手を伸ばした。ちょっと迷ったように指先を泳がせて、ピーチ味の包みを破る。
「おいしい」
唇をすぼめて花がわらった。
ああ、こんな笑顔を持っていたんだ。花は頬を丸くして明るく微笑む。背景のハイビスカスの派手な花が、よく似合う笑顔だった。
それから、花と仲良くなって、昼休みはいつも花と過ごすようになった。
それで、花の購買へのパシリは終了した。
佐那たちは、食べかけのお弁当を投げつけられたのがショックだったのか、不満そうな視線を私に向けるだけという状態が続いている。
キレやすいのもいいことがあるものだ。
結果、私は花を助けることができて、傍観者というクズから抜け出すことができた。
花は母子家庭だったそうだ。
少し前に母親が亡くなって、今は祖母の家で暮らしているのだという。祖母宅も裕福ではない。
「お昼ご飯は自分で買うから」
と、花は祖母に言って、高校に入学してから、最初はその言葉通りにコンビニやスーパーでお弁当を購入していたのだけど、すぐにお金がなくなって、お昼は食べなくなった。
その話を聞いて、
「余ったご飯で作ったやつだから」
と、私は花におにぎりを作ってくるようになった。
「捨てちゃうやつだから遠慮しないでね」
と言っても、花は辛そうにおにぎりを受け取る。人に施しを受けるというのは、苦痛をともなうものなのだと、その花の態度ではじめて知った。
「今日の中身は、梅干しとツナマヨだよ」
花に引け目を感じさせないように、なるべく明るく私はおにぎりを差し出すようにした。「余り物」という設定だから、いつも二つのおにぎり。
「ありがとう……」
花は食べながら涙を流す。元々、感じやすい子なのだ。
「ねえ、朝と夜はちゃんと食べてるの?」
「お婆ちゃんが作ってくれるから……」
「本当に?」
こくん、と花が首肯する。よかった……。
「そうだ、これもあげる」
買ってきたミルクキャラメルを花に差し出す。
「友達だから同じやつね」
ポケットから、同じミルクキャラメルを出して花に見せると、もじもじしてそれを受け取る。ちょっとずるい言い方だが、「友達」を強調しなければ花は受け取らない。
「こつがあるのよ」
と、私は花の引け目に気付かない感じで、
「体育のマラソンとかやってられないよね? マスクの中でキャラメルを舐めるのよ」
「体育の時間に?」
花は目を丸くする。細くて白い手でおにぎりを持って、顔を隠すような髪型。だんだん、私の目を見て話してくれるようになってきた。
「風邪のふりで、マスクをしていれば絶対にばれないから」
素直な子で、こんなくだらない話を聞いても笑ってくれる。
花はミルクキャラメルをトートバッグの中に大切そうに仕舞った。そして携帯電話を取り出して、パカッとひらいて耳にあてる。ああ、ちょっとこれ嫌なんだ。花の変な「癖」が始まる。
「……お母さん? ……うん。うん。……わかった。ちゃんとお礼を言っておくね」
それだけ言うと、花は電話を切って元の場所に仕舞った。
花のお母さんはすでに亡くなっている。中学生のときから隠し持っていたその携帯電話は、元はお母さんの物で、すでに契約は解除されているのだとか。
「ひかりちゃん、おにぎりとキャラメルをありがとう。お礼が足りないってお母さんに言われちゃった」
ぺこり……と、花は深く頭をさげた。
そういう設定。
きっと、少し心が壊れてるんだと思う。ずっといじめられてきて、孤独で変になってしまった。
「いいよ、べつに。お母さんによろしく言ってね」
私もその「設定」に付き合う。それにしても、亡くなったお母さんから電話が来るってどうだろう。架空のお友達の方が理解しやすい気がする。亡くなった人からなんて怖いから。
「あ……また電話だ」
花は慌ててバッグに手を入れて、契約をしていないはずの携帯電話を取り出す。
「――お母さん? うん。ちゃんと今お礼を言ったよ。ひかりちゃんがお母さんによろしくねって。……うん。わかってる」
それで花が電話を切った。
「ちょっと、その携帯を見てもいい?」
私が手を出すと、意外とそれを私に握らせてくれた。こげ茶色のガラケー。角の塗料が擦り減ってるけど、大切に使われているのがよくわかる。しげしげ携帯を眺めていたら、
「ひかりちゃんのお父さんは、二年前に亡くなったんだよね?」
と、唐突に花が言った。
「う、うん」
どうしてそれを知っているのだ。私の友達に聞いたのだろうか。二年前、私が中二のときにバイクの事故でお父さんは亡くなった。小さい頃から大好きだったお父さん。でもあの頃、なぜか私はお父さんを嫌っていた。服装が派手になったとか交友関係とか、いちいち口を挟むお父さんが煩わしかった。そしてあの日、お父さんと喧嘩をして、
「お父さんなんか死んじゃえばいいのに!」
と、恐ろしいことを私は言った。いわゆる死ぬ死ね語。表現する言葉を知らなくて、極端な言葉が口をついてしまう。あの酷い言葉が、私が伝えた最後のものとなった。お父さんは、その言葉を抱えて事故で亡くなってしまった。
「お父さんと話したい?」
携帯を持つ私に、花は泣きそうな顔で言った。
「そんなの決まってるじゃない。でも、出来ないことを考えてもしょうがないでしょ?」
私は怒る感じで言った。友達といっても、入ってきてほしくない話題もある。
「でも、お父さんはひかりちゃんと話したいと思ってるはずだよ」
珍しく花が食い下がって、
「勝手なことを言わないで! ぜんぜん知らないのに!」
と、私はつい、声を荒げてしまった。
「あ、また来た」
花は私から携帯を取り上げた。
また、お母さんから着信があったようだ。そういう設定……。きっと、私を傷つけたことに気付いて、お母さんが花を叱る電話だ。もちろん、着信音なんて鳴ってない。
「今はやめて」
携帯に手を伸ばして触れると、心底意味がわからない、という感じで花は首を傾げた。花は、孤独でこんなふうになってしまったのだ。怒るのもどうかと思って私は沈黙した。
花は私の顔を覗き込むように見て、
「本当にお母さんから電話が来てるんだよ。私のお母さんと話してみる?」
花が携帯を差し出して私の耳にあてようとする。ぞっ……として、思わず肩をすぼめてしまった。これは、花のお母さんが使っていた携帯電話。もしかしたら、花のお母さんの声が録音されていて、それをいつも花は聞いているのかもしれない。
恐る恐る携帯に耳をあてる。
でも、スピーカーからはなにも聞こえてこない。
「バッテリーがなくなっちゃった」
花はそう言って携帯電話を折り畳んだ。
「私、行くね」
これ以上、付き合う気になれなくて、私は逃げるように花から遠ざかった。
ある日、佐那たちが休み時間にミルクキャラメルを食べていた。黄色のパッケージのおなじみのやつ。
佐那、優奈、実夏、葉月……。その様子を観察する。実は、前から違和感があった。ほとんど、毎日のようにおにぎりを二つ、花のために私は握って彼女に与える。お菓子もよくあげるのだけど、そのお菓子を家で食べようとするのか、花は大切そうにベージュのトートバッグに仕舞ってしまう。
あ――!!
見た。私は佐那たちに突進した。
ぎょっとして、佐那たちの視線が私に集まる。
彼女たちが私のことを「ヘンジン」と影で呼んでいるのを知っている。変人でなにが悪い。クズよりましだ。
「ちょっと! そのキャラメル、あなたたちのじゃないでしょ? 私が花にあげたものよ。どうしてあなたたちが食べてるのよ」
不思議そうに顔を見合わせる佐那たち。
「わけわかんねー」
私から逃げるように佐那たちは教室から出ていった。
ヘンジンに関わると危険だ……という感じ。
私が花にあげたお菓子が、佐那たちに奪われていると私は疑っていた。花に与えたものと似たようなお菓子を佐那たちがよく食べているからだ。
花に与えるお菓子の値札。
その白地の端に私はシルシを付けるようにしていた。赤のマジックで小さな点を打って、その赤いシルシに、まさか彼女たちは気づかない。そのシルシが、佐那たちが食べていたキャラメルの値札に付いていたのだ。
私は花をベランダに連れていって問いただした。
「お菓子、佐那たちに取られてたの?」
花は、泣きそうな顔で首を横に振る。
「怒らないから、本当のことを言って。取られたのね?」
それでも花は首を必死に横に振る。私に申し訳ないと思って真実が言えないようだ。
「私の勘違いならいいけどさ……」
シルシをはっきり見たから勘違いではない。
花は佐那たちが恐ろしいのだ。私には想像もできない恐ろしさなのかもしれない。だから言いなりになる。花を追い詰めるようで、私はそれ以上言えなかった。
昼休みになって、いつもの中庭の花壇に花と一緒にきて、
「今度、一緒にバイトしない?」
と、花に言ってみた。
二年生以上は普通にバイトが出来るけど、一年生でも先生の許可を取ればバイトをしてもいいそうだ。それを私は先生に聞いてきた。夜の八時までというルールはあるけど、休みの日には何時間でも働ける。
「私も知らなかったけど、別に一年生でも禁止されてるわけじゃないんだって。事情によっては許可されるって先生が言ってたよ」
「そうなの……?」
花の頬が桜色に染まった。嬉しいことがあると血色まで良くなるようだ。お金に困っているのに、てっきり一年生はバイト禁止だと思い込んでいたようだ。
「バイト募集のチラシとか見てさ、目ぼしいのがあったら先生に言いにいこうよ」
「うん!」
ただ、私が許可されるかはわからない。素行が悪い生徒は二年生になってもバイトが許可されないという話を聞いている。素行が悪い一年生なんてなおさらだ。あの、教室の壁に食べかけのお弁当を投げつけたのはまずかった。あのお弁当は先生が片付けたそうだ。クラスの誰かが先生を呼びに行って、先生はその惨状を目撃した。あのあと、私は先生に絞られた。しばらくは佐那たちと揉めないようにしなければならない。
しかし、次の日に私は大噴火した。
昼休みに佐那たちが、花のベージュのトートバッグを開いていたのだ。花の大切に仕舞っていたお菓子で宴会状態。
頭の中が真っ白……。
どうしてそんなことができるの?
刃物でもあれば、それを持って佐那たちに飛びかかりそうだった。実際、私は机の上のシャーペンを、凶刃のように鋭い方を佐那たちに向けて立ち上がった。
「こっち!」
という声がして、私は後ろから誰かに抱えられた。
「花ちゃん?」
「こっち! こっち!」
ものすごい力で花が私の身体を後ろに引く。
そのまま、私は花に抱えられるように教室から出された。
お母さんの言う、
「いじめられる方にも問題があるのよ」
という意味がわかった気がした。花が怒らないから佐那たちが増長する。
私が代わりに怒っても限界があると思った。事を荒げたくないのか、佐那たちに用事を命じられても、花は笑顔さえ抱えて献身的に奉仕する。
怒っても、大切なコップが割れてしまうとか、ノートパソコンのキーボード部分に水をかけて壊れるとか、そういう後戻りできない深刻な損害が出るわけじゃない。声を出すときには出さなければだめなんだ。そうしなければ、いつか自分が壊れてしまう。
私はふて腐れたようにぶらぶら歩いて、私たちのいつもの場所のハイビスカスの花壇に向かった。ふらふら歩く私に、
「こっち」
と、花が手招きする。
「殺人事件でも起こると思ったの?」
いつもの場所に座って花に毒づく。
「うん」
花は真顔で二回うなずいた。
「ふっ、起こるわけないじゃない。せいぜい、シャーペンを投げるくらいだよ」
「……でも、それで取り返しがつかないことが起こるかもしれないから」
「目に刺さるとか?」
「グサッと」
花は手でグーを握ってそれを自分の目にあてた。
「刺さるかなあ」
私が真剣に首をひねって考えると、花も冗談だったのか私を見て笑った。でも、投げつけるのは確かに危険だ。怪我をさせれば後悔する。後悔することは最初からやらなければいい。
「あのお菓子は、あの人たちに売ったのよ。勝手に売ってごめんなさい……」
花が申し訳なさそうに告白した。
「売ったの? いくらで?」
「あれは全部で二百円」
「そうなの?」
そんなにお金が欲しかったのか……。
前のキャラメルも、私が買った値段よりかなり安い値段で佐那たちに売ったのだという。
そのお金で、昨日、携帯電話のバッテリーを交換したのだと花は言った。昨日売った二百円で、バッテリーの購入費の千五百円が貯まったようだ。花のお母さんの遺品の携帯電話は、消耗してすぐにバッテリーが切れるようになっていた。大切な携帯電話……。花はバッテリーの交換に執念を燃やしてお金を貯めていた。契約が解除されて、電話番号もない電話なのに。
「そんな悩みがあったのね……」
色んな悩みがあるものだ。お菓子を食べたかったはずなのに、いじめっ子のグループに売ることで花はお金を作っていた。言ってくれたらお金を直接あげたのに……。お金なら貰いにくかったのかな?
「その携帯電話にお母さんの声が入ってるの? いつもそれを聞いていたいの?」
この際だから、私は花にはっきりと尋ねた。
お父さんの声を聞くことが私にはもうできない。録音したものがないからだ。もしもそういうものがあれば、私も寂しいときに聞いたかもしれない。ちょっと野太くて、ちょっとがらがらの大好きなお父さんの声。酷いことを言ってしまって、もしももう一度話すことができたら、あの声でお父さんはなんと言うだろう。私を叱るかな。反抗期だったんだって、笑い飛ばしてくれるかな。
「お父さんのこと、後悔してるの?」
花が私の顔を覗き込む。
私の質問には答えないのに、私の心の奥に平気で花は入ってくる。
「私のお父さんのこと? 誰から聞いたか知らないけど、そういうこと、友達でも言ってほしくないんだよね」
私がきつめに言うと、
「でも……」
と、花はポケットから自分の携帯を出して私に握らせようとした。
「携帯の電池を交換したから、長く話せると思う」
「だれと……」
「お父さんと話せるの。お父さん、ひかりちゃんに言いたいことがあるんだって。だから、早く電池を交換したかったの」
「私、今は話したくない感じ」
「大丈夫だから」
あんまり花が真剣に言うから、つい私はその手から携帯電話を受け取ってしまった。花が目に涙を溜めて私を見つめる。私もなんだか泣きたくなってきた。
「――お父さん?」
電話を耳にあてて言ってみる。もちろん、なにも聞こえない。
「……お父さん、ごめんなさい。私、ずっと後悔していたの。酷いことを言ってごめんなさい――」
私より先に花の瞳から涙の粒がぽろぽろ落ちてきた。
お父さん、聞いていたらなんて言うだろう。「わかってるよ」って、きっと言ってくれると思う。そしてきっと、「ごめんなあ」って、笑ってくれる。俺がおっちょこちょいで、あんなへんなタイミングで死んでしまった。「お父さん、大好き」って、最後にひかりが言ってくれたあとに死ねばよかった。
笑顔で言う、そういうお父さんのガラガラ声が聞こえた気がした。
「……花ちゃん、ありがとう」
電話を花に返そうとすると、「まだ」という感じで花は目でおさえてきた。私はまた、携帯電話を耳にあてた。
『――ひかり、お前知ってるか? その腕時計、お父さんが買ったんだぜ』
え……?
電話口からお父さんの声が聞こえた。
「お父さん?」
『――その、赤いバンドの腕時計だよ。それ、俺が買った物なんだよ。なんで母さん、今でもそれを内緒にするかなあ。俺からのプレゼントだってわかっても、捨てないよな?』
「この腕時計……?」
時間は進む。後悔の象徴だった時を刻む赤いバンドの腕時計。
『あのとき、ひかりとはすぐに喧嘩になって、お父さんからって言っても、誕生日のプレゼントを受け取らないと思ったんだよ。だから、お母さんからということで、その腕時計を渡して貰ったんだよ』
「……お父さんが買ってくれたの、これ」
『割と高いんだぜ。――あ、もう時間だ』
「時間?」
大好き――。
と伝えようとしたら、
『わかってるから』
と、恥ずかしそうに言って、お父さんは電話を切ってしまった。
今のはなに……? 夢、だろうか。
電話が切れてみると、会話は鮮明に覚えているけど、遠い記憶の中の出来事のような気がしてきた。でも、たしかに私はお父さんの声を聞いた。
「自分からはかけられないけど――」
と、花ちゃんが言った。
「また、ひかりちゃんにかかってきたら、教えてあげるね」
そういう設定……だろうか。私は変になってしまったのかも。
「私の電話にもかかってくるかな?」
私は、自分のスマホをポケットから出して見てみた。耳に当ててみても何も聞こえない。
「着信ボタンを押さないとだめなの?」
と、花に聞くと、
「ひかりちゃんには無理だと思う」
と、花はさっぱりしたような、綺麗な笑顔でわらった。
「そうなのね……」
花の持っている、そのこげ茶色の携帯電話が特殊なものなのだろうか。それとも、花が電話の交換手みたいなもの?
家に帰ってお母さんに、この赤いバンドの腕時計のことを聞けば、お父さんとの会話が「本物」なのかがはっきりする。お父さんが亡くなって二年もたつのに、腕時計が本当はお父さんからの贈り物だなんてことがあるだろうか。そうだとすれば、奇跡が起こったことになる。
ただ、確かめないでいいこともある。そんな気もした。
確かめなければ、また奇跡が起こって、お父さんと花の携帯を通して話せるかもしれない。そんな予感がした――。
花は、その後も佐那たちにたびたびいじめられていた。
私はそのたびに手をあげて、
「いじめ、かっこ悪いとおもいますー」
と、冗談っぽく言った。
佐那たちは、最初は目を吊り上げて恐ろしい顔で私を睨んできた。
それを続けると、やれやれ……という感じの笑顔を私に返すようになってきた。
花もそれを見て笑ってる。あんたは笑ってる場合じゃないとおもう。
どのようなことをしても時は進んでゆく。赤いバンドの腕時計は、私の腕で相変わらず時を刻んでいた。〈了〉