目を逸らさない
強い雨が降ってきた。少しの間だから大丈夫だろうと高を括ったのが失敗だった。強くなる前に、さっきのコンビニで傘を買っておくべきであった。歩いても走っても濡れる量は変わらないと聞くが、長く濡れ続けるのはごめんだ。屋根を利用して走ったが梅雨の雨は容赦ない。目的の扉を開くまでに、すっかり服の色は変わってしまった。持ってきたリュックの中身を確認したが、こちらにまでは影響がなくほっとした。
小さな白い西洋風の扉が現れた。店内に光が灯っていることにほっとした。扉の脇には『天使の羽』と書かれた置き看板があり、木製の羽が左右に飾られている。店に近づくと扉にはCLOSEの文字がかけられていたが、この扉が開くことを僕は知っている。軽やかな鈴の音が来店を知らせ、店内は初めて来店した時と同じようにカモミールの香りで溢れていた。
「いらっしゃい。しばらくぶりね」
店の奥のカフェスペース。そのカウンターの中から、ストライプ柄のエプロンをした加奈さんが声をかけた。胸元まで伸びる黒髪を緩く右肩にまとめている。
「こんばんは、加奈さん」
「今日はどうしたの?」と加奈さんは僕の後ろを覗き込むようにした。「薫ちゃんのバイトとは聞いていないけど」
「ええ、今日はすごく個人的な理由で来ました。できれば、温かい飲み物を頂けませんか?」
「そうね、あとタオルも持ってくるわ」
加奈さんはカモミールティーと大きめのバスタオルを持ってきた。ぼくは礼を言ってから受け取り、全身を拭いた。いくらかましになったのでリュックを下ろして椅子に座り、カモミールティーを口に運んだ。
「口に合うかしら?」
「……細かい味はよくわかりませんが、おいしいです」
よかった、と加奈さんは微笑んだ。包み込むような優しさを持った女性で、薫ちゃんがお姉さんのように慕っている女性。加奈さんも薫ちゃんを妹のように思っていることだろう。僕は持ってきた鞄に一度視線を移したが、すぐ加奈さんに戻した。
「どうして、薫ちゃんのお父さんと、不倫しているんですか?」
驚いて狼狽するんじゃないかと思っていたが、加奈さんの表情に変化はなかった。独立した理由を聞いたときと変わらない、優しい微笑のままだ。
「どうしてかしらね……」
語尾は尻すぼみに小さくなっていき、加奈さんもその答えを知りたがっているようにも思えた。何か明確な理由があるんだと思っていた僕はいささか拍子抜けしてしまった。
「経営が苦しいとか?」と僕は尋ねた。
「すこぶる順調よ」加奈さんは答えた。
「純粋に愛している?」と僕は尋ねた。
「いいえ」加奈さんは答えた。
「弱みを握られている?」と僕は尋ねた。
「それにしてはささやかな要求ね」加奈さんは答えた。
「じゃあ、一体どうして?」
最後の疑問には答えてくれなかった。加奈さんはカップを口に運び、味わうように飲んでからため息を漏らした。
「ちなみに、緑里さんはいつから気づいていたの?」
「初日から奇妙に思っていましたよ」
僕は初日の会話を思い返した。
「薫ちゃんが帰ってから開店した時のことを聞きましたよね? その時に加奈さんは薫ちゃんのお父さんのことを『あの人』と言ったんです。家族のような親しさだなと思っていましたが、よく考えると不自然でした」
「それだけで?」
「いいえ。確信したのは十日程前に薫ちゃんと話した時です。薫ちゃんも悩んでいますよ」
薫ちゃんと話したその日、叔父に連絡をとって真意を尋ねた。叔父はすべてを知っていた。薫ちゃんのお父さんが加奈さんとの関係に悩んでいることも、薫ちゃんのお母さんが生活を維持することに苦しんでいることも、薫ちゃんが何も気づかない振りをしていることも。
大人の二人には叔父さんが支えになれる。けれど、薫ちゃんを支えることはできない。苦肉の策として僕を薫ちゃんの傍に置いた。『姉』の代わりにに『兄』をあてがったのだ。
「……人生に疲れちゃったのかもね」
カップの渋みをペーパーで擦りながら加奈さんは話した。
「独立して、一人でも生活できる力を身につけようと思って、頑張ってきた。何度もやめようかなって迷ったけれど、それでも何とかここまでこぎつけたのよ。自分のお店を持って、看板をかけて、来店してくれたお客さんが笑ってくれた。嬉しかったな」
加奈さんは目を瞑り、懐かしむような笑みを浮かべた。でも、と言ったとき少しだけ表情が固くなった気がした。
「順調にお店がまわるようになったお礼に、あの人を夕食に招待したの。開店の時のお礼も兼ねてね。最初はお互い笑いながら経営のことを話して、これから大変なことがあっても何とかなるんじゃないかって思えたの」
それが良くなかったのかもね。
「先を考えちゃった。この先って、どこまで? あの人は言ったわ。君にもうゴールなんてないんだ。走り続けるしかないんだよって」
雨足が強まってきた。道路にぶつかる音、水たまりに飛び込む音、窓を叩く音。本格的な梅雨は今日の雨から始まると天気予報は言っていた。それが始まったようだ。
「それを聞いて疲れちゃったの」
「疲れていた」僕は繰り返した。「疲れていた」
「そう、疲れていた」加奈さんも繰り返した。「疲れ続けているのかもね」
私も、あの人も、と呟いた。
「そしたら、目の前に座っている人も同じように疲れていて、私があの人の疲れに気づいたように、あの人も私の疲れに気づいてくれた。気づいたら、無視することなんてできなくなって…………」
その先を加奈さんは言わなかった。僕も聞きたいことではなかった。
加奈さんが話すのをやめると、雨音が一層際立って響いた。目を閉じてみた。聴覚に支配された世界で、雨音がカーテンのように柔らかく耳を塞ぐ。僕と加奈さんの間にある気まずい沈黙は、カモミールの香りに包まれた。
このすべてが優しい空間で、すべてを許すかのように微笑んでいた加奈さん。その微笑の裏にどんな感情を隠して生活していたのだろうか。
人は誰でも疲れていて、どこかで溜まった疲れを発散してまた溜める。誰もそれを直視しようとしない。毎日食事をして眠ることに疑問をもたないのと同じように。でも、それを考えてしまった人がいて、偶然その二人が出会ってしまった。
僕は鞄の中から一葉の写真とA4の封筒を取り出して加奈さんの前に置いた。加奈さんは不思議そうにその封筒と写真を見つめ、少しだけ目を見開いた。
「この人は……」
「昔の素敵な人です」
写真には携帯電話を片手に歩くスーツ姿の男が映っている。細身でモデルのように足も長い。けれど気取ったところのない優しい青年の姿。
「会社を辞めて別の会社に就職していました。独身で彼女もいません。何人かの女性と付き合ってはいたみたいですが、どれも長続きしていません。現在も都内で働いています。他の詳しい内容は封筒の中です」
加奈さんは封筒を開こうとしなかった。写真を手に取り、いつか見た、懐かしむような視線を写真に向けた。
「よく笑う人でね。本当に素敵なデートをしてくれた」
加奈さんの呟きは、優しく僕の耳に届いた。
社会人とはいえ加奈さんは純粋すぎた。自分が部長に利用されたことを知り、男もそれを利用していることを知った。きっかけがどんなものであれ、恋をしてしまえばよかったのだ。どんな理由でも、加奈さんと知り合いになりたかった男の気持ちを、ほんの少しでも理解できれば、『あの人』と出会うこともなかったのだろう。
もしも一緒になっていれば。
加奈さんはずっと自問を続け、疲れてしまったのだろう。そして気が付くとその疲れの名前を忘れてしまった。理由のない疲れはどうすることもできない。でもその疲れに名前を付けてあげれば、きっと……。
僕は鞄を持って椅子から立ち上がった。男の写真から僕に加奈さんの視線も移った。僕は笑顔を作った。
「では、帰ります。それと、薫ちゃんは加奈さんのことが今でも大好きです。変わらずに接してあげてください」
カモミールティーはまだ少し残っていたし、外は雨が降っている。でもこの店は閉店していて、加奈さんに必要なものを僕はもう持っていない。そして、加奈さんの素敵な思いに出に、僕が水を差すわけにはいかなかった。
ふと、クマのぬいぐるみに目がとまった。非売品の札がかかったぬいぐるみ。僕は薫ちゃんが選んだと思っていた。でも、薫ちゃんは開店祝いにカップを渡している。
たった一度だけ訪れた男。その男が残した不器用な優しさを、加奈さんはいつまでも大事にしている。
扉を押そうとノブに手をかけたとき、加奈さんが僕の背中に声をかけた。
「緑里さんの彼女を紹介してね。ペアリングを作ってあげたいから」
僕の中に溢れた感情が何かの形になる前に、僕は振り返って笑っていた。頬が痛くなるぐらいの笑みで。
「はい。必ず」
扉を押して鈴の音を鳴らした。僕は夢想した。ペアリングを作っている加奈さんと、温和に微笑む素敵な男の姿を。




