笑ってほしいから
体の怠さと重さと酒の臭さで目が覚めた。時計を見ると残り短い午前中が終わろうとしている。狭い天井が遠のいていくようなまどろみの中、河野の顔が思い浮かんだ。眉間に皺を寄せ、拳を握りしめたのに苦しそうな顔。苛立ちと苦痛に耐えるような顔で僕を責めた。居酒屋でこんな苦しそうな表情をしていただろうか? 僕にはわからなかった。
起き上がって額に手を当ててみるといくらか熱い。微熱があるようだ。
携帯を開いて薫ちゃんを探した。
『ごめん。今日は風邪引いたから迎えに行けない』
送信ボタンを押す前に絵文字を入れるかどうか迷ったが、入れたところで何かが変わるわけでもないだろう。送信ボタンを押して携帯を机に放り投げた。テレビをつけると、男のコメンテーターが訳知り顔で若者の恋愛について語っている。その男が三年前に離婚したのは周知の事実のはずだが、人はこんなにもふてぶてしく生きられるものなのか。
コメンテーターの後には深刻そうな顔をしたキャスターが地球の裏側の内紛を語り、経済を嘆き、パンダの出産を祝った。次の料理番組では伊達巻の上手な作り方を教えてくれた。どれも僕の人生にあまり影響はなさそうだ。しばらくしてからテレビを消した。
シャワーを浴びて酒の臭いを落とし、タオルで頭を拭きながら脱衣籠を覗いた。酒の臭いが充満していた。洗濯機に放り込んでスイッチを入れると、悲鳴のような音を上げて回り始めた。
体はだるいが何か口に入れたい。冷蔵庫を開けてみてもすぐに食べられそうなものはない。タッパーに入れたご飯と卵を一つとった。鍋に水を入れ火にかける。沸騰するかしないかのところでインターホンが鳴った。新聞の勧誘は昨日来たし、NHKはもう一年来ていない。それ以外の来客者を想像すると一瞬河野の顔がよぎった。黙っているとまたインターホンが鳴った。ぐずぐずするな。そう言われているような気がしてコンロの火を消した。
「どなたでしょうか」
声をかけると、外の気配は消えたように静かになった。
「安心していい。ビールは持ってない。それに鍵も開いてる」
コンロの火を点けなおしてご飯を入れた。作り方がわからないが、誰に食べさせるわけでもない。適当な時間に卵を入れ、鍋の中でかき混ぜて全体に絡まるようにした。
背後で扉が開いて誰かが入ってくる気配がした。靴脱ぎに立ち止まり、そこから動こうとしない。いつまでも背中を見られるのは居心地が悪い。振り返らずに尋ねた。
「どうしたんだ?」
「……さいっあくの作り方」
「僕が食べるからいいんだよ」
答えてから、奇妙に思って振り返った。そこには予想に反し、私服姿の薫ちゃんが立っていた。白いカットソーの上にオレンジ色のカーディガン、黒のフレアスカート。その手には紙袋を下げている。
「病人なんでしょ? もっと栄養のあるもの食べたら?」
「ええっと、どうして? 今日の学校は?」
僕が聞くと、薫ちゃんは呆れてため息をついた。
「寝ぼけてるの? 今日は日曜日。ついでにもうとっくにお昼は過ぎてる」
携帯を確認した。確かに、薫ちゃんにメールを送ってからそれぐらいの時間は過ぎていた。それでも僕は信じられず、目をこすってからもう一度よく見た。何度見ても私服姿の薫ちゃんが靴脱ぎに立っている。
「ねえ、どっちがいい?」
「どっち?」
「おいしい料理を食べるのと食べないの」
「そりゃあ、もちろん、食べたいな」
「じゃあ決まりね」
薫ちゃんは靴を脱いで上がると、僕が持っていた鍋を奪って中身のお粥を一瞥した。
「スプーンちょうだい」
言われるがままに、抽斗からスプーンを出して渡した。薫ちゃんはありがと、と言って受け取ると、お粥をすくい念入りに息を吹きかけた。頃合いをみて口に運び、ハフハフッと頬を動かし首を傾げた。
「……おいしくもまずくもない」
「まあ、そうだと思うよ」
「料理作らないの?」
「答えはその鍋にある」
ふうん、と薫ちゃんは僕とお粥を見比べた。まさか薫ちゃんに食べてもらえると思わなかったお粥は、恐縮です、と萎縮しているようにみえた。心底悪かったと思うけど、僕のせいではない。足元に置いてある紙袋の中身を覗くと、中には果物やスポーツ飲料に生姜まで入っている。
「とりあえず寝てて。ごはんぐらい作ってあげるから」
「でもどうして?」と僕はまた聞いた。
「だって」リンゴを切りながら薫ちゃんは言った。「彼女がいないんだから私が看病しないと誰も来ないでしょ? 家族だと思ってゆっくりしてよ」
とっとと寝る、と言われ僕は台所から追い出された。それでも口を出し続けていると、そばにあった空のペットボトルを投げられたので、大人しく従うことにした。
布団の上で横になりながら薫ちゃんの作業する音に耳を傾けた。久しく聞く生活音を聞きながら昨日のことを思い返した。
河野は今日にも絵莉を呼び出しているのかもしれないし、今まさに告白しているのかもしれない。それとも夜を待っているのだろうか。絵莉だって河野のことが嫌いじゃない。返事は保留するかもしれないし、付き合っても愛情はないのかもしれないが、友情とか同情とかそんな気持ちから始まる恋だってあるさ。
河野の後押しをするためとはいえ、口にした言葉が胸に燻り続けている。絵莉を巡るライバルになればよかったのか、それとも河野の告白を止めるべきだったのか。僕が絵莉に思いを伝えればよかったのか…………。
もう河野や絵莉と楽しく遊べないだろう。そう思うと少し寂しくなる。
「できたよ」
薫ちゃんの声で目が覚めた。少しまどろんでいたみたいだ。卓袱台の上には切り分けたリンゴ、ベーコンとほうれん草の炒め物、卵焼き、スポーツドリンク、それにお粥が置かれていた。
「まさか薫ちゃんが作ったの?」
「ほとんど家から持ってきたの。作ったのはリンゴとお粥だけ」
僕の隣に腰を下ろすと、召し上がれ、と言って微笑んだ。僕は久しぶりに、いただきます、と言ってお粥を口に運んだ。お粥は梅の味と塩気のついた料理に変わっていた。
「おいしい」
「よかった。食べれるだけ食べてね」
久しぶりの家庭的な食事に僕の箸は止まらなかった。用意されたものすべてを平らげると、薫ちゃんは最後に生姜茶を持ってきてくれた。ぺたんと座って、薫ちゃんも一緒に生姜茶を啜った。あったかい、と薫ちゃんが呟いたので、僕はため息をついて頷いた。
「ありがとう。おいしかったよ」でも、と僕は続けた。「どうしてこんなにいろいろしてくれるんだ? ただのボディーガードに」
そもそもボディーガードかどうかも怪しい。
薫ちゃんは微笑んだまましばらく生姜茶を味わっていると、実はね、と言って顔を上げた。
「私ね、みーちゃんのことずっと知ってたんだ。お父さんがみーちゃんの叔父さんと友達だったのは知ってたでしょ? 結構頻繁にうちに来てたし、みーちゃんのことよく話してくれたんだ。大学に受かったことも叔父さんから聞いたんだよ」
「本当に?」と僕は言った。「僕は聞いてなかったな」
「叔父さんに黙ってもらったの。驚かせたかったから」
薫ちゃんは両手を合わせて謝罪のポーズをし、いたずらが露呈した子供のように舌をだした。
「じゃあ若くて無害な男に代われっていうのは?」
「それも口裏合わせたの。嘘ついてごめんね」
「傷ついたな」僕は唸った。「もう立ち直れない」
「そしたらまた介抱してあげるね」
薫ちゃんは笑って、膝を抱えた。その膝の間に自分の顔を置き、小さくだるまのような形になった。
「ねえ、みーちゃん。聞いてもいい?」
「スリーサイズは教えられない」
「自分のサイズわかるの? でもそれじゃないんだな」
薫ちゃんは口元を隠したまま虚空を眺めている。その空間に目を向けてみても地味な色のカーテン以外特にない。
「……お父さんのね、帰りが遅くなってきたの。気が付かなかったけど、思い返せば高校に上がってから、お父さんと一緒にご飯食べてなかった」
「高校生ならしかたない。薫ちゃんにも用事があるし、お父さんの仕事も軌道に乗ったのかもしれないし」
薫ちゃんは何も言わなかった。僕も薫ちゃんにならい、膝を抱えて地味な色をしたカーテンを眺めてみた。いくら見ても明るい色には変わってくれない。
「……お母さんの趣味がね、全然違うの」
関係ない話題がでてきて僕は戸惑った。戸惑っていても薫ちゃんは話を続けた。
「それまでは黒とか茶色とか、地味な色が好きな人だったのに、全然着なくなったの」
「心境の変化ってやつじゃないの? 家計に余裕が出てくれば、違うことに目を向ける余裕も出てくる」
「全部加奈さんのお店の商品でも?」
「……まあ、知り合いが経営してるんだし、贔屓にしてて悪いことはない」
薫ちゃんの意図がわからなかった。僕の言葉を聞いても、そっか、と呟くだけでまた黙り込んでしまった。何を聞いても答えてくれそうになく、かといって薫ちゃんの気を引きそうな話題も思いつかない。駅前にクレープ屋がオープンしたことも、今話すべきことじゃない。
遠くから廃品回収のアナウンスが聞こえてきた。それが呼び水になったのか、薫ちゃんがため息交じりに口を開いた。
「夜にお父さんとお母さんが話してたの。最初は声を落としてたんだけど、だんだん言葉が荒くなってきて……。気になって耳を澄ませてみたら、いくつか言葉が聞こえて……」
「言葉?」
薫ちゃんは大きく深呼吸をすると、小さく頷いた。
「どうして、浮気してるのって……。お父さんは、否定したみたいだけど……」
それ以上、聞きたくなくって――――。
そう言って、薫ちゃんは膝に額を押し付けた。
「……加奈さんには相談した?」
「できるわけない」と薫ちゃんは力なく呟く。
肩が小刻みに震えていた。僕はそれに気づかないふりをして、加奈さんとの会話を思い返していた。
『あの人の好意で手助けしてもらっているだけ』
確か経営のことを話していたとき、僕が聞いた言葉に加奈さんが答えた。
親密な雰囲気を感じたけれど、その時はそれだけだった。浮気なのか? と問うてみればそうとも言えるし、やっぱり考え過ぎな気もする。過去を語る加奈さんの姿に、加奈さんの瞳に、薫ちゃんのお父さんが映るとも思えなかった。
私はね、と薫ちゃんは言った。
「どうだっていいって突き放すつもりはないけど、世間的にはないことだよね。お父さんにも考えがあるんだろうし、お母さんにも……。誰に言えばいいのかわからなくて、みーちゃんの叔父さんに相談したの。そうしたらみーちゃんを紹介してくれた」
ねえ、と薫ちゃんは顔を上げた。
「なんとかしてなんてお願いしない。でも、愚痴とか話に来てもいい?」
泣き叫ぶのを堪えるような瞳を向けられた。強い子だと思った。家族の不和に耐え、これまで辛さを支えてくれた加奈さんにも相談できず、それでも涙を零さない。
抗えるはずもなく僕は頷いた。とはいえ、薫ちゃんの瞳がどんな瞳だとしても、僕は抗うことなどせず了解しただろう。
「もちろん。嫌な先輩が現れたらなんとかする。スリーサイズだって教えてあげるし、ケーキがあれば全部食べるよ」
「それはダメ」
「いつでもおいで」
僕は薫ちゃんの頭を撫でて笑いかけた。
小さい体をもっと小さくし、震えながらも、薫ちゃんは目を細めて笑ってくれた。




