僕にできること
雨が降りそうな夜だった。布団の上で寝ころんでいるが、いつまでたっても眠気は訪れない。眠るには早い時間で、何かをするには面倒な時間。てもちぶさたにテレビをつけてみても、下品な笑いや神妙な顔に同調することはできなかった。結局、テレビを消して枕に頭を預けた。
あれから数日経つが、薫ちゃんがバイトに行かないため加奈さんにも会っていない。加奈さんが昔を語る姿に後悔も気負いも感じられなかった。それでも細める瞳には過ぎ去った過去を懐かしむような色が見え、もしも過去に戻れたとしたら、加奈さんは同じことはしないのではないかと思った。会社を辞めたかもしれない。独立したかもしれない。でも、男と別れることは…………。
思考の波が無遠慮な振動でかき消された。枕元の携帯を取り上げると、画面には河野の文字が踊っている。少し迷ったが、通話ボタンを押して耳に当てた。
『今、どこにいる』
いきなり河野が話しかけてきた。河野がかけたのだから当たり前だが、前置きってものがあるだろう。僕は寝転がりながら答えた。
「家にいるけど」
河野の背後からいくつか笑い声が聞こえる。少しくぐもって聞こえるため、室内にいるようだ。
「どうしたんだ?」
『話がしたいんだが』
「こんな時間にか」
寝るには早い時間だが、飲みに誘うには遅い時間だ。
「夜は寝ていたいんだ」
『非常識だとは思っている。それでも話がしたいんだ』
珍しく真剣な声音に僕は返答に窮した。その間を河野は承諾と理解したようだ。
『駅前の居酒屋で待ってる』
河野は店名を言った。それは何度も行ったことがありすぐにわかった。待ってる、と再び言うと電話は一
方的に切れた。通話が切れたことを告げる無機質な音を聞き、画面の通話ボタンを押そうかどうか悩んだ。しばらく悩んでいると画面は黒くなり無機質な音も止んでしまった。
僕はため息を吐いて玄関に向かった。今度携帯電話会社に連絡しよう。電話が切れた時ぐらい気分が楽しくなる音楽を流せないものだろうか。一方的に切られる電話ほど空しいものはないのに。
「いらっしゃいませ」
店内は八割ほど埋まっていた。店員に案内され店の奥に行くと、赤ら顔の集団の中で浮き上がるように河野が座っていた。テーブルのジョッキは半分ほど減っているが泡はなくなっている。河野の前に立つと、そこで初めて気づいたのか驚いたように顔を上げた。
「緑里か」
「呼び出しておいてそれはないだろ」
「そうだな、すまん」
店員にビールを頼んで河野の正面に座った。河野は視線を彷徨わせながら気まずそうに残っていたビールを飲み干した。飲み干してもなかなかジョッキを手放そうとせず、通りかかった店員に追加のビールを頼んだ。
「どれだけ飲んだんだ」と僕はテーブルの隅で丸まった伝票を開いた。「一人でヤケ酒にしても量が多すぎるだろ」
「安心しろよ、割り勘なんて言わねえ」
「助かる」
軽快な笑みは軽口のおかげだろうか。固くなった体をほぐすように河野は首を回し、両手を伸ばした。
「悪かったな、いきなり呼び出したりしてよ。どうしても話しておきてぇことがあんだ」
「愛の告白なら間に合ってる」
「そんな趣味はもっちゃいねえ」
店員がビールを二つ持ってきた。互いに受け取り、どちらからとなくジョッキを合わせた。零れた泡がテーブルに小さな島を二つ作り、シュワシュワと少しずつ小さくなっていく。
「俺は佐々木が好きだ」
河野はビールに向かって呟いた。僕もビールに目を向けたが、ビールは答えてくれない。仕方なく僕が答えることにした。
「ああ、よく知っている」
僕は河野に話しかけたつもりだが、河野はビールを見つめたまま顔を上げない。なかなか答えないので、本当にビールが何か答えてくれるんじゃないかと思ってしまう。河野に倣い、僕もビールの答えを待った。
ビールを口に運んだ。一口、二口、三口……。四口目には口をつけず、河野の後ろに座っていた男女四人組を見た。四人の前に置かれた飲み物はどれも残り少ない。それでも店員を呼ばないのは店を変えるのだろうか?
唐突に河野が、そうか、と呟いたので、それが先ほどの会話の続きだと理解するのに時間がかかった。河野はもう一度、そうか、と呟いた。
「……気づいてたよな」
「気づかれないと思っていたのか?」僕は呆れて頬杖をついた。「あからさま過ぎる」
河野は小さく鼻で笑った。自虐的な笑みに映り、何に自虐的になっているのか聞こうとする前に河野が口を開いた。
「俺はお前と佐々木のことを知ってるぞ。佐々木がお前に告白したことも、お前が返事を保留し続けていることも」
それは僕と絵莉しか知らないことだった。僕は誰にも話していないから、絵莉が話したのだろう。河野は間接的に聞いたのかもしれないが、直接聞いているとするなら二人は僕の知らない間に距離を縮めているのかもしれない。その事実に僕の感情は驚くほど平静だった。
「なあ、なんでお前は絵莉に答えてやらねえんだ? お前はどっちなんだよ。好きなのか? 嫌いなのか?」
「絵莉には伝えてある」
「俺にも教えろ!」
睨み付ける河野をごまかすのは難しそうだ。納得のいかない答えであれば河野は迷わず僕に飛びかかるだろうし、答えなくても同じことのような気がした。
「僕は絵莉を嫌いじゃない。でも、付き合うことができない」
「どうして?」
どうして? 僕も反芻した。どうして、僕は絵莉と付き合わない? 僕が答えないでいると、河野は蔑むように口角を上げた。
「わからねえんだろ? 教えてやるよ。お前は傷つきたくねえだけなんだよ」
そうだろうか? 僕は傷つきたくないから絵莉と付き合わないのだろうか?
「適当に人と付き合って踏み込まれそうになったら距離を置く。ある程度の距離からは絶対に近づかせねえ。友達になれても親友にはなれねえ、恋人にもなれねえ。わかるか? お前ともっと親しくなりてえって思ったやつは、きっとごまんといるだろうよ。なのにお前が勝手に遠ざかりやがる。お前は、こっちの気持ちを考えたことがあんのか? 親友だって思ったら、お前なんてその他大勢と一緒だよって、言われる奴の気持ち、考えたことがあんのか?」
どすの利いた声だが、周りは僕らの雰囲気など気にせず大声で笑っている。どこかのテーブルでコップが割れたようだが、笑い声が一層大きくなるだけだった。その声に河野が眉をしかめたものの、見開いた眼は僕を捉えて離さなかった。
「本音で話して、もっと人に近づいてみろよ。そりゃあ人間なんだから、どんな親しくなっても傷つけちまうこともあるだろうが、それを許しあえる関係はいいものなんだぜ。ひとつのミスもねえ神業みてえな生き方なんて、できねえんだからよ」
「僕の生き方とお前の告白に何の関係が?」と僕は聞いた。河野はむっとしたように眉間に皺を寄せて舌打ちした。
「なんで本音をぶつけてこねえ! 俺の言葉が癪に障ったんなら、そう言えばいいじゃねえか! 知った風な口きいていらいらしてこねえのか? 自分に告白してきた女を奪おうって男がムカつかねえのか? 答えろよ!」
いくつかのテーブルは、僕らの異様な雰囲気を察して好奇な視線を向けてきている。先ほどまで会計をしようとしていた四人組の男女も、言葉少なに会話を交わしているが、意識はこちらに向いているようだ。離れた席では無関係で下品な笑い声が響いていて、店内で僕らの周りだけ異様な存在感を醸し出していた。
視線を逸らそうとしない河野を見据えた。力強さに溢れた河野らしい眼光だ。
「本当に告白するのか?」
「ああ、そのつもりだ」
「たぶん……」言おうか迷ったが、もう止めるほうが難しそうだ。
「振られるぞ。完膚なきまでに振られる。それでもいいのか?」
「一回の告白で諦めると思うのか?」
河野の言葉を聞いて、僕は顔に出さずに笑った。
そうだな、河野はそういうやつだな。
きっと一回目は振られるだろう。でも、河野なら二回目も三回目も告白する。告白を重ねても気まずい雰囲気を作らず、心地よい距離を保てるはずだ。二人でカラオケに行けるだろうし、誕生日だって祝うだろう。振り向いてくれるまで、いつまでも思い続けられるのが河野だ。
そんな河野の思いと優しさを、いつまでも断り続けられるほど絵莉は冷酷ではない。友達から始まったとしても、同情からだったとしても、二人は恋人同士になれる。自分の気持ちがわからず悩んでいる男なんかより、きっと絵莉を幸せにしてあげられる。
なら、僕が絵莉と河野にしてあげられることは少ない。
「きっと二回目でも三回目でも振られるよ。お前は自分で思っているほど好かれてはいない。その根拠のない自信が、どこから出てくるのか理解しがたいな。そこで提案しよう」
僕は人差し指を立てた。
「僕が絵莉を振ってあげるよ」
口元に笑みをたたえるような気軽さで、僕は言った。河野は言葉の意味が分からず、しばらく表情を失っていたが、次第に肩が震え始めた。僕はそれに気づかないふりをして続けた。
「このままではお前に勝ち目なんかないし、いつまでたっても恋人同士になんてなれない。そんな無益な青春をすごしてもいいのか? それならお前は告白するのをしばらく待て。僕が絵莉を振るからその後にしろ。傷心の女は口説きやすいって言うだろ? 好きなようにデートして海でも見てやることをやればいい」
震える河野の腕が目の前にあったビールを掴み、その中身を僕にぶちまけた。
近くのテーブルにビールの滴が飛び、その席の客が迷惑そうに顔を向けたが、すぐ気まずげに視線を逸らした。僕の前髪から滴が零れ、胸元を濡らした。着てきた服はもう着られないかもしれない。
「冷たいな」と僕は言った。「本当に冷たい」
「そうだろうな。一気に呑むのはきつい」と河野は吐き捨てると、財布から一万円札を取りだし、それを拳で握りしめてからテーブルの上に置いた。
「俺が誘ったんだからここは俺が払う」
「助かる」
「クリーニング代を払っても足りるはずだ」
「そうだね」
それ以上は何も言わなかった。足音が遠ざかり、扉を開く音がして、閉まる音がした。扉の隙間から入り込んだ風に背筋が震えた。そういえば、明日は雨になると天気予報が言っていた。アイドルの女の子もそう予言したのだろうか。
好奇心と奇異の目が店内に静かなざわめきを作り、その中心に僕がいることもわかっている。それでもいくつかのグループが会話を始めると、次第にそれが伝播し、いつしか元の喧騒に戻っていた。男女四人組のグループは足早に僕の横を通り過ぎていった。
「あの、これを」
女性店員がおしぼりを持ってきてくれた。大学生らしきその顔に見覚えがあったので、講義で一緒になったことがあるのかもしれない。彼女も同様に考えているのか繕うような笑顔を見せた。
「足りますか?」
「足りると思うよ。ありがとう」
頭と顔を拭いても臭いは取れそうにない。僕はため息をついて出口に視線を向けたが、河野がまだ近くにいる気がして帰る気分にはなれなかった。
「ビールひとつ」
女性店員は驚いた表情を見せたが、すぐにビールを持ってきてくれた。何でも言ってください、と耳打ちされ、必死に慰めようとしてくれる彼女に申し訳なく思った。
悪いのは河野じゃなくて、僕なんだ。そう言いたかった。




