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Name  作者: 忍足香輔
3/10

天使の羽

 大抵の大学生はアルバイトをしていて、自分のアルバイトがどれだけ不公平かをお酒の勢いで語り、より効率的で高給なアルバイトを探している。叔父さんはそのことを知っていて、かつ僕が暇な大学生であることも知っていた。さらに僕の携帯番号だって知っていた。


「大学生なんて暇なもんだろう」


 くぐもった声が受話口から聞こえた。


「そうじゃない大学生もいるさ」

「どうせバイトと酒と女だろ」


 ひどい偏見だけれど、街を歩けばそんな大学生が溢れているのも事実だった。僕は携帯を逆の手に持ち替えた。


「いいバイトがあるんだ。女の子と喋って笑う仕事だ。どうだ」

「夜は寝ていたいな」

「そんなんじゃねえよ。そんな仕事、俺ができると思うか?」


 僕は叔父さんの特徴的な尖った耳と、丸々したお腹を思い浮かべた。それにきらびやかなスーツに花束を持たせてみた。狸が人に化けたみただい。


「やってみたら? 案外うまくいくかもよ」

「馬鹿野郎。三日で辞めてやったよ」


 吐き捨てるように言ったが、三日続いたことに感動を覚えた。叔父さんはどんな顔で女の子の隣に座りどんな顔で女の子にキスをするのだろう。その女の子は叔父さんを受け入れたのだろうか。


 叔父さんはわざとらしい咳払いをした。


「俺の知り合いに、高校生の娘を溺愛してる親がいるんだよ。会社の社長でかなり裕福な男だ。その娘のバイトが終わったら、店の入口で捕まえて雑貨屋に連れていけ。そのあとは母親が迎えに来ることになってる。まあ、送りのバイトだ」


 口調は誘拐計画のようだ。この電話が盗聴されていませんように。


「最初から母親が迎えにくればいいじゃないか。そうすれば手間が省ける」

「日課みたいなものらしくてな、俺も詳しく聞いてねえ。子供のわがままを聞くのだって親心ってもんだ」


 勘当同然で福島の実家から飛び出してきた人に、親心を理解できるとは思えなかった。それとも、だからこそ大切さを実感できるのだろうか。


「とにかく、先方にはお前の写真と連絡先伝えたから、よろしくやってくれねえか」

「複雑な家庭の事情があるのか」

「そんなもんどこにでもあんだろ? 余計なこと考え過ぎんなよ」

「考えないし、心配なら考え過ぎない方法を教えてくれ」

「馬鹿野郎、そんなもん自分で考えろ」


 どうすればいいんだと叫びみたくなったが、きっとそれも自分で考えろと言われるのだろう。叔父さんの誕生日には矛と楯をプレゼントしよう。


「お前はやりゃ並み以上にこなせるから、余計なこと考えちまう余裕ができるんだろうよ。わかったら働け」


 適当な理由をつけて断ることもできたが、高給高待遇効率的のバイトを断る理由も見つからなかった。その後に叔父さんから送られてきた写真を見て、やる気が上がったのは内緒だ。


 花井さんと対面してみて、写真よりも少しばかり高飛車に感じるけれど、高校生なんて社会を斜めに見ている人がほとんどで、自分が築く将来の大きさに保証のない確信を抱いている。大学生はそれに輪をかけてひどい。だから、僕がとやかく言えることではない。


「無害ってのはいいことよ。それだけで人生得するんだから」

「そうかな」

「そうよ、知らなかったの?」

「知らなかったな。まだ得したことがないんだ」


 出来の悪い弟を見るような目をして、花井さんは僕の袖を引っ張った。


「早く帰らないと私が怒られるんだけど」

「僕も君を帰さないと怒られるんだけど」

「利害は一致してるね。じゃあ急いで」


 花井さんは僕の腕と自分の腕をからめて歩き出した。その仕草があまりにも自然すぎて、僕はその行為が何を表すものなのか咄嗟に判断できなかった。


「花井さん」

「薫」

「かおる?」

「私の名前よ。それにさん付けって止めてくれない。私、年下なんだから」


 それもそうか、と思い、じゃあなんて呼ぼうかとしばらく考えた。そうやって考えているうちに、今更腕を組んだことを言及する気にもなれなかった。制服を着た男子生徒の団体が、僕らを意識しながら通り過ぎ

ていった。


「……薫ちゃんはどうしてバイトなんて? 何か欲しいものでもあるの?」


 考えた末の言葉はありふれ過ぎているような気がし、付け足した言葉はおじさん臭く響いてしまった。


「そんなんじゃない。みんなバイトしてるし、私もしたくなっただけ。授業終わってから友達と予定合わなかったら暇じゃん? それに、あんまり家にいたくないし」


 最後についでのように口にしたことが倒置法のように強調されていた。どこの家庭にもある家庭の事情かもしれないし、思春期の微笑ましいエピソードかもしれない。


「カラオケを選んだのは?」と僕は聞いてみた。「ウェイトレスのほうがよっぽど似合っているのに」

「だってカラオケし放題だよ」

「ケーキ屋で働けばケーキ食べ放題じゃないのか?」

「ケーキは食べたら無くなって、すぐにばれるからダメ。それにダイエットの敵」

「なるほど」


 薫ちゃんの体は細くて華奢に見えたけど、女子高校生のベスト体型なんて僕は知らない。仮にベスト体重になったとしても、彼女たちは体型を維持するためダイエットとシュプレヒコールを起こすに違いない。ダイエッ党が与党を席巻するのも遠くない。


 カラオケ店のある繁華街を抜けると、駅の北口ロータリーに出る。家路を急ぐ学生や、仕事終わりのサラリーマンに客寄せの店員を交わして駅を通り抜けた。駅からまっすぐ伸びる道路を挟み、左側の学生街は繁華街と色彩が異なる。若々しいパワーで溢れているためか、大学まで向かう通りは華やかに彩られ、くすんだ色の看板ですら通りを装飾するモニュメントのように映る。その先に大学と多くの学生が暮らすアパートが立ち並ぶ。右側は落ち着いた住宅街が広がり、瀟洒な住まいは、学生の足を遠のかせる遠因となっている。雑誌にも掲載される個人経営の飲食店が潜んでいるらしい。


 薫ちゃんは迷わず右側に歩を進めた。住宅街はこれからが盛りの学生街に反し、ひっそり安眠への準備を進めていた。


「こっち側に来たのは初めてだ」物珍しくあたりを見回した。線路沿いには学生が入るようなアパートが居心地悪そうに構えていた。

「薫ちゃんの家もこっち側?」

「うん。でも遠いから車じゃないとげんなりするよ。加奈さんのお店はもう少し」

「かなさん?」突然出てきた名前に僕は首を傾げた。

「ああ」と薫ちゃんは思い出したように口を開けた。

「お母さんと待ち合わせしてるお店の人だよ。もともとお父さんの会社で働いてたから、私も知ってるの。すんごいかっこいい女の人なんだから」


 薫ちゃんは『すんごい』に力を込めた。言葉だけでなく、輝かせた瞳からも加奈さんの『すんごい』を表そうとしている。僕は眼鏡をかけたキャリアウーマンを想像してみた。薫ちゃんのお父さんと仕事をしていたのなら、年齢も高めだろう。


「それはそれは」僕は薫ちゃんに微笑んだ。「いい人に会えたんだね。僕も会うのが楽しみだ」


 宝物を褒められた子供のような無邪気さで、ふふっと薫ちゃんは笑った。


 細く入り組んだ道でも、薫ちゃんはパン屑を辿るように力強く僕の腕を引っ張った。帰りの道順を覚えていられるか不安になったころ、小さな白い西洋風の扉が現れた。すっかり日が落ちてしまい、外観はよくわからない。扉の脇には『天使の羽』と書かれた置き看板がある。木製の羽が左右に飾られていた。店に近づくと扉にはCLOSEの文字がかけられていたので僕は薫ちゃんを見た。


「この店だよね? 明かりは漏れているけど、閉まってるな」


 しかし薫ちゃんは僕の問いに答えず、組んでいた腕を解くとノックもせずにノブを回した。僕も慌てて後に続いた。


 軽やかな鈴が入店を知らせると、こぢんまりとした室内はカモミールの香りが充満していた。白やクリーム色を基調とした柔らかい色彩で溢れている。女性もののTシャツにポストカード、ペンシルケース、ガラス製の茶器、水玉模様のクッションと多様な品物が並んでいる。奥のスペースはカウンターだけのカフェになっていて、カモミールの香りはそちらから強く香ってきていた。


「いらっしゃい」


 カウンターの中からストライプ柄のエプロンをした女性が声をかけた。年齢は僕より上で三十に届かないぐらいだろう。胸元まで伸びる黒髪を緩く右肩にまとめている。


「えっと、この人が?」

「そうだよ、加奈さん」


 予想していたよりもずっと若くて綺麗な人だ。物腰の柔らかそうな人ではあるが、凛とした気品を感じる。


「遅かったね。アルバイトはどうだったの?」

「大変すぎる! 覚えることまだまだいっぱいあるしさぁ。でも楽しいな」


 薫ちゃんはカウンター席に座り頬杖をついた。加奈さんはそんな薫ちゃんを微笑ましそうに見つめている。加奈さんの前には一脚のカップとソーサーが置かれ、そこからもカモミールの香りが漂っていた。


「働くって大変な事でしょう? アルバイトでも企業にとっては貴重な戦力なんだから、サボったりしちゃだめよ」

「しないって。あっ、緑里さんもこっち座って。荷物ありがとう」

「あ、ああ」

「遠慮しないで。薫ちゃんを送ってくれたんだから、好きなものを飲んでいって」


 断る理由もなく、勧められるままに薫ちゃんの隣に腰を下ろした。二人の親密な雰囲気を肌で感じながら、カウンター内にある珈琲の器具や紅茶のカップを眺めた。どれも僕の部屋に置くには荷が勝ちすぎる。

薫ちゃんがカフェオレを注文したので、同じものを加奈さんに頼んだ。


「閉店しているのにすみません」

「いいのよ、薫ちゃんはいつもお構いなしだから。薫ちゃんもあなたぐらい慎み深ければいいのにね」

加奈さんは作業をしながら緑里さんだっけ? と聞いたので、僕は頷いた。

「緑里さんは大学生よね? 懐かしいなぁ、一番自由で楽しい時期よね。でもそんな時期をこんなことに使っていいの?」

「こんなことってひどいよ」


 と薫ちゃんは唇を尖らせた。不満よりもアヒルを表しているように見えた。


「僕は楽しんでいるよ。こっち側に来て、こんなお洒落な雑貨屋を教えてもらえたんだから」

「ふふ、ありがと」


 話しながらも、加奈さんはカフェオレを僕らに提供してくれた。甘いカモミールの香りの中に、珈琲の苦味とミルクの優しさが奇妙に同居し始めた。熱いうちに啜ると、砂糖とミルクの甘みが舌の上で転がる。薫ちゃんはカフェオレの水面を睨み付けて、何度も息を吹きかけていた。


「アルバイトで困ったことは?」


 一応ボディーガードらしいので仕事らしいことを聞いてみた。あって困るのは僕なので、できれば何もないほうがいい。しかし水面を睨み付けている薫ちゃんは、ある、とはっきり答えた。


「それは困るな」

「仕事は順調なんだけどね。かなりチャラい先輩がいるの。自分の自慢ばっかりして気持ち悪い恋愛観語ってくるし」

「気持ち悪い?」と僕は繰り返した。

「そう。気持ち悪い」


 考えただけでも嫌なのか、薫ちゃんは眉間に皺を寄せて舌を出した。


「男と女は相性があるから多くの人と付き合うに限るんだよ。それでデートしてキスしてセックスして駄目だったら別れればいいんだ。俺はそうやって色んな経験積んでるから薫ちゃんに最高の経験させてあげるぜ」

「女の子が簡単に口にしていい台詞じゃないな」

「私じゃないもん。その先輩が言ったんだからそっちに言ってよね」


 無茶言うなと思ったが、薫ちゃんの唇が今度はちゃんと不満を表していたので言葉を呑みこんだ。頃合いをみて薫ちゃんがカフェオレに口をつけると、幸福な笑みとため息が零れた。


 僕が河野と絵莉の歌声に聞き惚れているときに、そんな敵と戦っていたとなると、本当にボディーガードとしての力が必要になるのかもしれない。覚悟の意味で背筋を伸ばした。


「でも冗談じゃなく嫌な先輩ね、困っているなら店長さんに相談したら?」


 加奈さんも不安げに目を細めた。


「大丈夫だよ。釘刺したし、何とかしてくれるから」と言って薫ちゃんは僕を見た。「バイト帰りには忠犬ハチ公よろしく彼氏が迎えに来てくれるので経験は積めません。多くの経験を積むのは結構ですけれど、それだけ多くの女性に嫌われた人と付き合いたいと思いますか?」

「僕は犬?」

「警察官だって犬って言うでしょ? 優秀な人に冠せられる称号なんだよ」


 そんな立派なものではない。まあバイトだし、どんなに罵倒されようとも薫ちゃんのバイト終わりに僕は駆けつけるのだろう。忠犬ハチ公よろしく。わんわん。


「ボディーガードなんだから何かあったらよろしくね。ねえ、加奈さんは嫌な男に迫られたときはどうしてたの?」

「きちんと話してお断りするわ」


 カウンターに肘をついて人差し指を顎に指している。加奈さんの考えるときのポーズであろうか。


「でもすんごいしつこい男もいたでしょ? そんなときは?」

「知り合いの男性に相談して解決してもらったわ。ほとんどの人が快く引き受けてくれるから」


 加奈さんほどの女性に相談されれば喜んで引き受けるだろう。ほっそりとした体形に似合った細い薬指には、リングが見当たらない。多くの男たちがそこに指輪をはめようと骨肉の争いを繰り広げたに違いないが、その男たちの野望が成就することはなかった。それとも思い人はいるのだろうか。


「その中で素敵な人はいなかったんですか?」


 僕が聞くと、加奈さんではなく薫ちゃんが満面の笑みで答えた。


「いるよね、とっても素敵な人」

「……もう昔の人よ」


 澄まして肩をすくめたが、加奈さんも満更ではなさそうだ。その態度は僕の好奇心をくすぐるには十分な

ものだ。


「どんな人? 薫ちゃんも知ってるの?」

「すんごい優しくて背が高い人? モデルみたいに足も長いし? 眼鏡をかけて知的な雰囲気がして実際すんごく頭がいいんだよね? 一回だけここに来たことがあるんだよね?」

「……全部疑問?」

「だって会ったことないし、加奈さんに特徴しか教えてもらってないし」


 特徴を捉えていることで逆にわかり辛い。頭の中でマネキンのような男が優しげに微笑みかけた。振り払って、何度か新しい像を組み立てたがうまく組み上がらない。詳しい説明を求めようとしたら、扉が三度ノックされた。


「あー、もう来ちゃった」

「お母さん?」


 薫ちゃんが頷くのと同時に扉が開いた。縁のない眼鏡をかけた、四十代半ばぐらいの女性が顔を覗かせた。黄色いカーディガンを羽織って、仕事帰りなのか紺のスラックスを履いている。神経質そうに眼鏡の位置を直しながら、ぐるりと店内を見渡した。


「薫、早くなさい」


 と薫ちゃんにいくらか厳しい口調で言い、婦人は検分するような視線を僕に向けた。思わず立ち上がり、小さく頭を下げた。


「あなたの叔父から話は聞いています。これからもお願いしますね」

 

 薫ちゃんの母親は、まあいいでしょう、とでも言いたげに鼻を鳴らした。どうにか合格点は貰えたようだ。それで僕に対しての興味は失ったのか、微笑んでいる加奈さんに対して向き直った。

「以前購入したブローチは素敵でした」

「ありがとうございます。お気に召されてなによりです」

「ただ旦那はあまり快く思いませんでした。今は旦那に好まれる装飾品を探していますが、良い品はありませんか?」

「わかりました。ではいくつか思い当たるものをご紹介します」


 加奈さんといくつか言葉を交わしている間に、薫ちゃんは何度もカップに口をつけ、カフェオレを飲み込んだ。そんなに焦らなくてもいいのにな、と思ったが忙しない小動物のようで微笑ましかった。

中身を飲み干すと、鞄を持って立ち上がった。


「今度は明後日だからよろしくね」

「ああ、じゃあまた明後日」


 薫ちゃんは僕の背中に軽く肩をぶつけると、鈴の音を鳴らして出て行った。閉まる扉の隙間から、バイバイと小さく手を振ってくれた。


 背後の鈴の音を、婦人は首を微かに動かすことで確認して背を向けた。加奈さんとの会話は終わっていたようだ。別れの言葉もなく、婦人は扉を開けて出て行った。薫ちゃんと同じ鈴の音なのにずっと無機質な音に聞こえた。扉の外では車のエンジンをかける音がして、それがどんどん遠ざかっていった。


「それでは、僕も帰ります」

「ゆっくりしていったら? 新しい飲み物用意するから」


 僕が逡巡している僅かな時間に、加奈さんは薫ちゃんのカップを片付け、僕の前に新しいカップを置いた。加奈さんが飲んでいるものと同じカモミールティーだ。ここまできては帰るほうが失礼に感じ、じゃあ一杯だけ、と言って座り直した。


「薫ちゃんのお母さんは常連なんですか?」

「ええ、贔屓にしてもらっているわ。開店の時には家族ぐるみでかなり手伝ってもらったの。そのクマのぬいぐるみは開店祝いで頂いたのよ」


 加奈さんが指差す先には、ピンクのリボンをしたクマが椅子に座っていた。惚けた表情をしたクマの首には『非売品』の札がかっていた。男がプレゼントするには可愛すぎ、婦人の趣味にも見えないので、選んだのは薫ちゃんだろう。店先でクマとにらめっこする薫ちゃんの姿が思い浮かんだ。


「もともと、薫ちゃんのお父さんの職場で働いていたんですよね。そこの職場とこのお店はまだ関係が?」

「業務上では関係ないわ。あの人の好意で手助けしてもらっているだけ。薫ちゃんともその時に知り合って、あのときは中学生だったかな。あの人の後についてきて、最初は遠慮がちに雑貨を眺めていたけど、受験の時にはここでずっと勉強してたの。私が化学式を覚えちゃうぐらいに」


 すいへーりーべーと加奈さんが口ずさんだので、僕はぼくのふねと続けた。なあにまがあるしっぷすくらーくか、と同時に口ずさんでお互い微笑んだ。


「一人で経営するなんて、苦労が多いんじゃないですか?」

「か弱いだけじゃ生きていけないのよ。もちろん花井さんの助力があってだけれど、苦労が多いからって、道を変えたらとんだ落とし穴が隠れている。それが人生よ」

「僕には想像もできない人生ですね」

「緑里さんにもあるでしょう? 恋愛もその一つよ」


 絵莉の顔が思い浮かんだが僕は首を振った。胸によみがえる痛みに似た感覚を、カモミールの甘みでごまかした。その仕草だけで加奈さんは勘付いたようだ。


「堂々と恋愛して、自分を誤魔化さないようにね」


 すべてを悟ったようなフワリとした笑みを見せられ。僕は目を逸らした。躓いた瞬間を見られた時のような気恥ずかしさだ。気まずくなってカップを人差し指で弾くと、思いのほか鈍い音が出てしまった。


「恋愛だけじゃないでしょう? 大学生は勉強が本分なんですから」

「それもそうね」


 加奈さんは何度か頷いたが、でもと言いながら悪戯な笑みを浮かべた。


「緑里さんは、礼儀正しくお勉強するタイプには見えないかな」

「これでも真面目な公務員の息子なんですよ」


 言いながら白々しい台詞だと考えていた。


 堅物ではないが柔軟性のない父親に、夢を抱かせながら諦めることを美徳としている母親。兄は二人の希望通り公務員となり、妹は母と同じ看護師の道に進もうとしている。実家に帰る度、将来について説教されるのが嫌で、元旦以来連絡を取っていない。


 不仲だとは思っていない。会って話せば笑うし、買い物も一緒に行く。何不自由なく生活させてもらい、躓くことのない人生。けれど、そんな取扱説明書に書いてありそうな理想的な生活に埋没していくと、自分が駄目になっていってしまう。転がり落ちればそこにあるのは安定の道。永遠に這い上がることのできない温床。僕にとっての落とし穴。


 逃げて逃げて、でもどこに逃げればいいかわからなくて……。宙ぶらりんの自分はきっと誰よりも人生に不

誠実なのだろう。


「夢は?」と加奈さんは聞いた。

「寝るときに見るあれですね」

「なんでもいいわ。話してみて」


 僕は冗談で言ったつもりだったが、加奈さんは本当にどちらの話でも構わないようだった。どの話をしようか考えて、結局自分の将来の展望について話すことにした。


「ありません」

「それは人生の夢についてよね?」

「そうです。強いていうなら、大学に入るのが夢でした」

「いいじゃない。それでどう? 夢が叶った気持ちは?」


 掲示板で受験番号を見つけたときの絶頂と、母から聞いた言葉の失望。


「バレーボールのスパイク、それかバスケのダンク」

「?」

「大学を夢のような場所だと思って、合格した時は最高の気分でした。勉強をフォローしてくれた母も喜んでくれましたが、息子が大学に合格したことよりも、大学に息子をいかせることができる経済力を誇っていることに気づいちゃって」


 それから、大学入学と同時に家を出た。夢のような場所で何をすればいいのか、今でも見つけられない。


「両親の気持ちもわからなくもありません。でも、僕は折り合いをつけることができないんです」


 わかりたくない自分でありたいと思いながら、どうしようもなく両親に味方する自分もいる。理想を押し付けているのは両親なのか? 自分なのか? その答えも自分の中で出ているのに目を逸らしてしまう。


「いいんじゃない?」


 そんな苦悩を知ってか知らずか、加奈さんは語尾を弾ませた。


「悩まないで出る答えに価値なんてないの。悩んで悩みぬいて出せた答えは、一生大切にできる宝になるのよ。その悩み、大事にしてね」


 大事にできるだろうか? 柔らかく微笑んでいる加奈さんに向かい、肩をすくめ笑ってみせた。カップに残った最後のカモミールティーを飲み干して席を立つ。


「それでは、帰ります」

「また来てね。それと、きちんとボディーガードしてあげてね」


 申し訳なさそうな加奈さんに、妹を思いやる姉の姿が重なり暖かい気持ちになった。


 おやすみなさい。お互いにそう交し合って僕は扉を押した。鈴が軽やかな音を立て、扉を閉めると鈴の音は聞こえなくなってしまった。今にもカモミールの香りが漏れてきそうな雑貨屋『天使の羽』。

僕は少しだけ背筋を伸ばして帰ることにした。


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