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Name  作者: 忍足香輔
10/10

僕のName

 加奈さんの店を出てから駅まで走った。また雨足が強まり、駅では何人も雨宿りをしていて、僕もその中に加わった。ぼんやり空を眺めていながら、叔父さんに電話したときのことを思い返した。


「叔父さん、説明してもらっていいか」


 薫ちゃんが家に来たあの日、薫ちゃんをタクシーに乗せてから、叔父さんの携帯に連絡した。


「黙ってて悪かった。俺もあの娘の頼みにはついな」


 薫ちゃんは不倫の事実に勘付いたけれど、どうすることもできなかった。両親の間で揺れ動き、真相には目を逸らし続けていた。それでも家庭内にまで不穏な空気が流れ始めたので叔父さんに相談し、僕を紹介される。もちろん、アルバイトなんて口実だ。


「あいつを許すわけにはいかねぇが、まあ昔のよしみってやつだ」


 あいつというのは薫ちゃんのお父さんのことだろう。それに、と叔父さんは続けた。


「薫ちゃんには何の罪もねえ。助けてやらなくちゃな」

「可愛い子には弱いよね」

「そりゃ男だ、当然だろう」


 そこまで断言されてしまうと責めにくい。憎めない人だ。


「それにお前のこともな。何かは知らないが悩んでるんだろ?」


 僕は何も答えなかった。叔父さんはそれでもいい、と言ってくれた。


「悩め! お前ぐらいの年で簡単に答えが出せると思うな」


 電話口から豪快な笑い声が聞こえてきたので、携帯を耳から離した。河野が山賊ならこの人はその統領だろう。


「叔父さん、調べてほしいことがあるんだ」


 僕は加奈さんの昔の素敵な人について話した。叔父さんは黙って僕の話を聞き、最後まで話し終えてもしばらく黙って考えていた。


「解決するかわからないけど、何とかならないかな」


 僕の頼みを聞いた叔父さんは呆れたような唸り声を上げた。


「お前ができることなんてたかが知れてんだぞ。相手にとっちゃありがた迷惑だろうよ」

「それをどう判断するかは加奈さん次第だ。僕は手助けをするだけ。それ以上はしないよ」


 叔父さんは再び黙り込むと、仕方ねえな、とわざとらしいため息を吐いた。


「お前も手伝うか?」


 叔父さんの問いに僕は二つ返事で了解した。叔父さんが鼻で笑い、僕はその笑い方に文句をつけた。叔父さんと人探しをしている間、叔父さんは不思議と嬉しそうだったのが今でも印象に残っている。


 雨はまだ止まない。駅にいた何人かは覚悟を決めて飛び出していった。その背中に賞賛を送りながら、僕はもう少し佇むことにした。自動販売機に寄りかかりながら、紅茶の缶をぼんやり眺めた。


 僕がしたお節介は本当にただのお節介で終わってしまうかもしれない。昔の男と再会しても、不倫関係が終わる理由にはなっていない。むしろ余計な疲れを生み出してしまうかもしれない。


 不倫関係が終わったとしても、薫ちゃんの家族のわだかまりは完全に解消しない。目を逸らしていても何かの拍子に争いの種になる。そんな爆弾を抱えながら、家族生活を送ることなどできるのだろうか。


 背後で咳ばらいが聞こえたので振り返った。スーツ姿の男性が迷惑そうに僕と自販機を見比べていた。僕は軽く頭を下げ移動しようとしたが、他に体を寄りかからせるところも見つからず、覚悟を決めて雨の中に飛び出した。


 学生街を抜けて、アパートの傍まで来ると雨が小降りになってきた。アパートに着いても、自分の部屋に行く気にはなれなかった。思考はどこにも軟着陸してくれず、僕はアパートの前で立ちすくんだ。もう終わったことで僕が頭を捻ることでもないのだが、それでも自分の行動に後悔しか付きまとわない。第三希望の進路を選んだ気持ちでため息をついた。


 いつまでも立ちすくむわけにはいかず、アパートに入る扉を押した。


 僕の部屋の前に水色の傘が広がっていた。くるくると回り、足がその下からのぞいていた。


 思わず、立ち止まった。扉を開けたまま、僕はその傘がそこにある理由を探した。アパートの住人の男が二階から降りてきた。立ちすくむ僕を訝しげに見ながら、僕の横を通り抜けていった。


 回っていた傘が止まった。僕はひとつ深呼吸をして、気軽な笑みを浮かべた。


「……うちのアパートはそこまで雨漏りがひどくない。ちゃんと屋根がある」


 僕が声をかけると傘は振り返った。灰色のチェニックに赤色のパンツ姿の絵莉が待ちわびた顔をして立っていた。


「可愛い傘でしょ? 昨日新しく買ったんだ」


 絵莉はまた傘をくるくる回した。まさか傘を見せびらかしに来たわけじゃないだろう。僕が水を向ける前に絵莉が口を開いた。


「河野に告白された」


 知ってるでしょ? と聞かれたので僕は頷いた。


「大学のそばの公園で、俺は緑里と違ってお前を守れる。だから俺と付き合ってくれ。だって。みどりくんを意識してるよね」

「僕が女だったら惚れるような告白だ」


 まっすぐで河野らしい告白だ。羨ましくもある。僕には絶対にできない告白の仕方だ。


「それで、答えは?」


 僕が聞くと、絵莉は不服そうに目を細めた。わかってるくせに、そう言われている気がした。


「好きな人がいるからダメって答えた」それに、と絵莉は言葉を続けた。

「告白するんだったら私のことを好きになってから告白してって」


 続いた言葉の意味は理解できなかった。頭の中で反芻しても、言葉は僕の中で居心地悪そうに身をよじった。


「それは、どういうこと?」

「みどりくんに対する反抗心で私に告白しないでって」


 なだめるような口調で絵莉は言った。その言葉は紛れもなく河野に対して放ったのだろうが、絵莉の瞳は僕を見据えている。絵莉の口元は、わかるでしょ、とでも言いたげに微かな笑みを作った。


「河野も私もおんなじ。みどりくんに憧れて、みどりくんの傍にいたいんだ。私は、その中でも特別、傍にいたい」


 雨が降っているのに絵莉の言葉が熱を帯びている。その言葉が僕を苛立たせる。

僕よりもずっとか弱いその体で、僕よりもずっと強い力を秘めている。


 どうして絵莉も河野も迷いなく気持ちをぶつけられるのだろう。その言葉が誰かを傷つけて、人生を狂わせると疑わないのか? 胸の内に湧き上がる感情が、自分の本当の気持ちだとどうしてわかるのか? 保証なんて、どこにもないのに。


「河野は――――」


 絵莉の言葉に比べて自分の言葉は情けないほどに弱い。それでも、僕は言葉を口にしなければならない。


「――――反抗心から始まっても、河野は絵莉のことが好きだと思うよ」

「反抗心から生まれた感情に、愛情なんて言葉をつけてほしくない」


 絵莉はぴしゃりと言った。その力強さに、僕は驚いて背筋を伸ばした。


「私は同情で付き合うようなことはできない。自分の気持ちを誤魔化すこともできない。私の気持ちはずっと変わってない。今も、みどりくんのことが好き」


 傘が、絵莉の手から落ちた。一度跳ねて、持ち手の硬質な音が響いた。


 目を逸らせない。それを絵莉の目は赦してくれなかった。軽口で煙に巻こうと思っても、絵莉の震える唇がそれを拒絶した。今度は、よしとしてくれそうにない。


 僕は何も言えず答えられず、力なく首を振った。どうすればいいのかわからなかった。



『一人で考えすぎるなよ』



 叔父さんの声がよぎり、野太い声に背中を叩かれた気がした。


 一度も相談には乗ってくれなかったし、僕も話をしなかった。でも、僕の頼みを聞いて加奈さんのために動いてくれた。一緒に笑って、時には叱ってくれた。


 もしかして、僕の悩みを奪ってくれていたのか?


 僕が余計なことを考えないように一緒にいてくれたのか?



『堂々と恋愛して自分を誤魔化さないようにね』



 加奈さんが僕に教えてくれたこと。


 加奈さんの『天使の羽』から出るときに僕は何を思った? 彼女を連れてきてね、と言った加奈さんの言葉に誰を思い浮かべた? 僕の中に溢れた感情の名前は? 絵莉の告白で心臓が激しく脈打ち、体の内側から僕を駆り立てたこいつの名前は? 


 僕の正面で今日まで返事を待ってくれた絵莉。僕が思っているよりも、ずっと素敵な女性。



『奴隷であれ!』



 ……わかったよ。近々CDを買う。だから、こんな時に出てこないでくれ。


 一度目を閉じて、ゆっくりと開けた。


「絵莉、君に話すよ。この数日あったことを」


 絵莉は戸惑いの中に、小さな期待を込めた笑みをみせた。そう、僕はこの笑顔がけっこう好きなのだ。僕も笑って絵莉に手を差し出した。


 僕が何を考えて行動したのか、すべてを言葉にするのは難しい。嬉しいこともあったけど、恥ずかしいこともあった。怒られてしまうようなこともあるだろう。また迷って、後悔するかもしれない。でも、僕には背中を押してくれる人がいて、目を合わせれば笑ってくれる絵莉がいる。


 話の最後に、僕の中に芽生え続けていた感情に名前を付けよう。


 ずっと黙っててごめんね。これからよろしく、と。





最後まで読んで頂きありがとうございます。


次作も期待して頂けると嬉しいです。次はもっとギャグ要素の強いものにします。

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