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3(バカっ)

 グラスにお茶を注いでストローを差してやると、前屈みになってちゅーっと飲み、ふぅと息をついた。「元気そうじゃん」

「まぁね」わたしもグラスに口を付けた。なんだか少し渋い。

「昨日の濡れパンツは?」

 何を云い出すのだ。「洗ったよ」不機嫌に応えた。

 しかし苅谷は、「勿体なっ」落胆した声を出した。「女子中学生の濡れパンツならいいお小遣いになったかもしんないのに」


 この女、バカじゃないだろうか。


「いま履いてるのでワン・モア・チャンス」

「バカっ、帰れ」


 扉を指さすと、苅谷は首を竦ませ、ごめんと小さく謝った。「調子に乗った」

「まったくだ」

 わたしは不快感もあらわに鼻から太い息ついた。

 余りにも怒りが強すぎたせいで鼻水が出た。

 ストローでお茶を飲んでた苅谷はブクブクとグラスの中に息を吹き、口を離すや咳き込みながら笑いこけた。

 なんだかわたしもバカらしくなって、釣られて笑ってティッシュで鼻をかみ、丸めたそれをゴミ箱に放った。


 ひとしきり笑った後、苅谷は視線を壁に向け、「隣は誰の部屋?」

「お兄ちゃん。大学院生で年に二、三度帰ってくる」

「年、離れてるんだ」苅谷は宙に何かが書かれているかのように視線を向け、「お母さん、大丈夫?」

「なんのこと?」

「寂しいんじゃないかなぁって」

「さぁ」嘘ついた。「どうかな」

 まぁいいや、と苅谷はストローに口を付け、つるつるとグラスの中のお茶を飲む。


 兄が大学に進学して家を出てから暫くして、母は体調を崩しがちになった。

 幾つかのお薬を必要として、それが何かを父のパソコンでこっそり調べたことがある。


 白い錠剤は精神安定剤と呼ばれるものだった。

 名前とは裏腹にわたしは不安を感じた。


 帰宅するといつも何かしていた母は寝室に篭りがちになっていった。

 しかし薬を飲むようになるその前は何かの拍子に目を吊り上げたり、かと思えばひどく上機嫌だったりして、わたしは顔色ばかり窺っていた。

 何がきっかけでそのスイッチが切り替わるのか皆目見当もつかなかった。

 法則なんてないデタラメな母に、わたしは兄に戻ってきて欲しいと願った。


 お兄ちゃんさえいればきっと佳くなると思った。

 けれども兄は遠くへ行ったままそっちが居心地いいようで、帰省することは年に数えるほどでしかなかった。

 父も仕事ばかりで帰宅は遅く、だから母と一緒の時間をわたしは息苦しく思っていた。


 ふと苅谷は真顔になり、あのさ、と切り出した。「本当に昨日のことは悪かったと思ってる」頭を下げた。「ごめんなさい」

 不意打ちを喰らったようで困惑した。

 顔を上げた苅谷は何か云いたげに口をもごもごとさせ、うん、と自分に云い聞かせるように口を開いた。「境内にいたのはジュン兄さんって云って、従兄の従兄になるのかな、分家のお兄さんなんだ」

「ふうん?」

「最初に意地悪したガタイがいいのが弟分と云うか乾分のタツオ。うちはお母さんが出ちゃったからホントは分家なんだけど、女系で直系なのがあたしだけなんよ」

「何の話してるの?」

「これのこと」苅谷はポッケから両手を抜くと、目の高さにしてわたしに見せた。

 厚手の白い巾着みたいな布ですっぽり覆われ、手首をアクセ用の細いチェーンで縛られてた。

「左手、指が一本ないの知ってた?」


 知らなかった。気付かなかった。


「小学校一緒だったら、話くらいは聞いたことあったかもね」


 おちゃらけたような口調だったけれども、顔からは表情が消えていた。

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