1(何してんの)
くさりて
五月の中頃から姿を見なくなって、中間テストも受けることなく苅谷亜希子は不登校になった。
朝の出欠で名前は飛ばされ、空の机は廊下側の一番後ろに置かれ、ときどき近くの席の生徒の荷物置きになっていた。
苅谷とわたしは違う小学校に通い、中学に上がった去年の一年、初めて同じクラスになった。
体育や家庭科の班分けとかで一緒になる以外に特に話した記憶はなく、たまたま同じ教室の中に居たという以上の意味はなかった。
だから梅雨を間近にした或る放課後の帰宅途中、ついと道に飛び出てぶつかってきた相手が苅谷だったことにわたしは驚いた。
アスファルトにぺったり尻餅をついて見上げた苅谷は記憶よりも黒くて長い髪で、毛先は肩にかかっていた。
ブルーグレーのトレーナーパーカーに赤いタータンチェックのミニスカート。
黒のニーソックスを履いて、山にでも登りそうなオリーブ色の運動靴は、オレンジ色のメーカーロゴが差し色となってちょっとおしゃれだった。
苅谷は両手をお腹のポッケに入れたまま、「ごめん」ひどくそっけなく謝罪の言葉を口にして、わたしの顔を見るや、おやと僅かに目を大きくした。「何してんの」
こっちは朝から具合悪く、どうにか一日を切り抜けたところを横から華麗に突き飛ばされ、無様に尻餅をついたままだった。通学路でも人気の無いところで、誰かに見られなかったのが良かったのか悪かったのかよく分からない。
鈍く痛む腰に手をやりながら立ち上がって、制服のスカートの尻を叩いてる間も苅谷はぼんやり見ているだけで、立ち上がるのにも手を貸そうとしなかったし、そりゃ確かにわたしも具合悪いから注意散漫だったかもしれないけれども、飛び出してきたのは苅谷の方だ。
そんな不満が伝わったのか、いきなり苅谷は音もなく間合いを詰めてきた。
ギョッとしたわたしに構うでもなく顔を近づけると、くんくんと耳から首のあたりで鼻を鳴らし、すいと離れた。
口の端を皮肉っぽく曲げて笑う苅谷がひどく不気味だった。「ちょうどいいや、一緒に来て」
有無を云わさぬ口調で両手をポッケに入れたまま踵を返して歩き出すも、数歩で止まって首を巡らせ、細めた目を向け「早く」と促した。
仕方なくといった体で苅谷について行ったが、本心では逆らうのが怖かった。
家とは真逆の方向で、早く帰りたかったのに、苅谷はずんずんとがっちりした運動靴で地面を蹴って歩いて行く。
頭がしくしくからじくじくと痛み出し、うんざりとした気分が暗く重たくのしかかった。
苅谷の行く先は、人気がなくなり民家が途絶え、舗装された道路は雑木林に分け入るように細くなり、公道とも私道とも分からなくなって、不安をどんどん膨らませた。
衣替えをしたばかりで、まだ少し肌寒い。
どこかでカラスが鋭く鳴いた。
苅谷のイヤな感じの笑顔も相まって、どうにも気持ちがざわついた。
さっさと解放して欲しかった。
やがてカツンカツンと竹を打つ高い音がして、男子の太い喚声が聞こえた。
腰の引けかけたわたしとは対照的に、苅谷の足取りは変わりなかった。
戻ろう、帰ろうと云い出せるような雰囲気でなかった。
声はクラスの男子が教室で立てるようなバカ騒ぎよりも、ずっと粗暴で野卑な感じだった。
不意に開けて古くて黒ずんだ鳥居とお社が現われた。
境内には数人の制服姿の男子が竹箒でチャンバラに興じていた。
高校生だった。
わたしたちの姿を認めると一斉にぴたりと動きを止め、胡乱げな視線を不躾に向けてきた。
「なに遊んでるの」苅谷はぞんざいに言葉を投げた。「真面目にしないと怖いよ」
男子たちが互いに目配せをすると、一見してそれと分かるリーダー格が箒片手にぶらぶらと近づいてきた。「何だって?」
背は高く肩幅も広く、低くて太い声に怖くて身が竦んだ。
苅谷を超えて自分を見ているのが分かった。「中坊がなんか云ってるなァ」
わたしは視線を避けるように俯いた。苅谷は臆するでなく続けた。「日が暮れる前に片しとけって云われなかった?」
「適当でいいだろ」
「ご褒美持って来たのにこれじゃダメだね」
苅谷はぴょんと軽やかに後ろの飛び跳ね、わたしの背を肘でぐいと押した。
ギョッとして顔を上げると、幾つものニヤニヤとした薄気味悪い視線がわたしを射竦めた。
「へぇ」リーダー格が手にした竹箒を大きく振り上げて、肩に担ぐ。
空を切った穂先の風が頬を叩いた。胃がよじれて吐き気がした。
苅谷に嵌められた。頭がガンガンして、音が、声が、まるで水の中で聞くようだった。
「何してくれるんだよ? こいつ」
「お好きなように」
リーダー格が胴間声で笑った。周りの男子の笑いはお追従だったと信じたい。
「震えてんじゃん」顔を近づけられ、逃げ出したくても足がそうさせてくれなかった。
「仕事が済んでから」ぴしゃりと苅谷は云った。「あたしの見立てじゃ全然ダメだね」
なんだよと、男子は身を引き、不満げに鼻から太い息を吐いた。
自分がいかに間抜けでどうしようもないのだと思い知らされた。