19.
「気が狂いそうになるわよねぇ……ねぇ、そうよね? そうでしょう? そういうことなのよね? ふふ、わかるわ! すごくよくわかるの!」
「ちょっ、は、離し――!」
焼かれるような痛みが肩に走った。
エレノアの口調が狂気を帯びるごとに、その体温がぐんぐん上がっていくように思えた。
市子の髪が再びざわりと揺れた。
「るいを離して……!」
「ふふふふふ! 怒ったの? 私が憎くてたまらない? どんな風に感じてる? ねぇ、ねぇどんな感情が今貴女の中にあるの? ねぇ、ねぇ、ねぇ……!」
「いっ、づっ――!」
まるで焼きごてを当てられているような痛み。
その激痛についに耐えきれなくなった累が振り払うよりも早く――エレノアの腕を、ウォーターリリーの手が掴んだ。
「エレノア。落ち着いてください」
「……リリー」
途端、エレノアの顔から表情が消える。
ウォーターリリーは構わず、エレノアの手を無理やり累の肩から引きはがした。累は逃げるように市子の側に立ち、二人の様子を怖々とうかがう。
「彼女達は貴女に危害を加えてはおりません。彼女達を痛めつけてなんになるというのです。そこになんの大義があるのですか」
「……ないわ、ないの。大義はない、理由はないわ……でも、でもね」
淡々と問うウォーターリリーに対し、エレノアはゆるゆると首を振った。
その首の動きが、徐々に激しくなっていく。
「気が済まないの! 感情が止まらないの!」
「エレノア……」
ウォーターリリーが青い瞳を伏せる。
亜麻色の髪を振り乱し、壊れたように頭を揺らしながら、エレノアは叫んだ。
「怒りが、憎しみが、悦びが――ッ、頭蓋骨を内側から砕いて溢れそう!」
「ひっ……!」
髪を掻き毟りながら、エレノアが近づいてくる。
小さく悲鳴を漏らす累を庇うように手を広げ、市子がさっと前に出た。
「ねぇわかる? わからないわよね? わかるわけないものね! 私はかつて家族を皆殺しにされ、大きな屈辱を受けた――それからずっと、ずっと、ずっと!」
「っ……」
肩を掴まれた市子がわずかに顔を歪める。
エレノアを中心に再び周囲の気温が上がりだしているように思えた。
「感情が静まらないの……! 怒りが、憎しみが、悦びが……滅茶苦茶に入り乱れて、この胸の底で、頭蓋の奥で……ッ、延々燃え盛り、爆ぜ続けているのよ!」
「ですが、それを彼女達にぶつけるわけにはいかないでしょう」
その言葉に、エレノアがぴたりと動きを止めた。
ゆらりと振り返る彼女に対し、ウォーターリリーは静かなまなざしを向ける。
「彼女達ともっと話すべき事があるのでしょう?」
「……そうね、そうだわ、確かに」
こくり、こくりとエレノアはぎこちなくうなずき、市子から離れた。
そうしてゆっくりと、ふらつくようにしてウォーターリリーに近づいていく。歩き出したばかりの幼子が母を求めるように、エレノアは手を伸ばした。
「リリーの言うことはいつも正しい……でも、ねぇリリー。どうしようもないのよ、これは」
「そうでしょうね」
両肩を掴まれつつ、ウォーターリリーは短く答える。
エレノアはぐったりと頭を垂れ、しばらく大きく肩を上下させた。
「だから……わかってくれるわよね?」
か細いエレノアの声。それに対し、ウォーターリリーは一拍おいてから「ええ」と答えた。
直後――透明な破片が辺りに飛び散った。
「ウォーターリリー!」
一拍遅れてようやく理解が追いついた累は悲鳴を上げる。
それは一瞬のことだった。それまでぐったりしていたエレノアの掌が閃き、ウォーターリリーの胸部を捉え、それを木っ端微塵に吹き飛ばした。
硝子の砕ける盛大な音を立てて、ウォーターリリーの上半身が崩れ落ちる。
ひび割れた右腕が床に転がった。そこにエレノアの踵が何度も振り下ろされ、粉砕される。
「ちょ、ちょっとエレノア!」
「待ちなさい、るい」
慌てて駆け寄ろうとした累の手を市子が掴んだ。
「もう理解できたでしょ……あの女、狂ってるわ。迂闊に手を出したらどうなるか――」
「でもあのままじゃ――!」
「……ごめんなさいね」
幾分か静かになったエレノアの声に累は口を噤む。
無数の硝子片が散らばる床に、エレノアはしゃがみ込んでいた。無数の切り傷が刻まれた手でウォーターリリーの手首を持ち上げ、彼女は弱々しく微笑む。
「興奮しすぎるとまともに話せなくなるのよ……これでやっと落ち着いたわ」
「でもウォーターリリーが……」
「……問題ございません」
疲れ切った様子でウォーターリリーは言う。その頭部はエレノアの側に無造作に転がされていて、累達からはその表情をうかがい知ることができない。
エレノアはほうと大きく息を吐くと、ウォーターリリーの手首を床に置いた。




