3.
「父様とまともに会話したことはないわ」
震える累の上で、市子は語り続けている。
「いつも、ずっと独り言を言っているの。あの遊郭の女はいけないとか、煙草がまずいとか。いつもわたしの言葉なんか聞いちゃいない」
「……そう、なの」
「そうよ。それがわたしと父様の日常なの。自分のことばかりで、それで嘘ばかり」
「嘘?」
「そうよ……外に出してくれるって、いつも」
市子は一瞬、うつむいた。しかしすぐに頭を振り、累に顔を近づけてきた。
半分体を起こしていた累は思わず身を縮める。
「な、なに」
「――るい、あなたはわたしに嘘を吐かないでね」
紅い瞳を細めて、市子はまっすぐに累の眼をのぞき込んできた。
こくり、と累は唾を飲み込む。
「私は、嘘吐いたりしないけど……」
「ほんと?」
「本当だってば! 私はあんたに対して嘘吐かない。だって嘘吐いたら、私にひどい事するんでしょ? さ、さっきみたいに変な事とか――」
「変な事ってなぁに?」
市子はきょとんとした顔で首をかしげる。
累の頬にさっと朱が差した。
「さっきの! いきなり口に指突っ込んできたりとか、なんか腕回してきたりとか!」
「え……でも、気に入った相手にはああするんだって本に書いてあったわ」
「どんな本読んでたの……!」
頭を抱え込む累をよそに、市子はくすくすと小さな声で笑った。
「ねぇるい、約束よ。あなたはわたしに嘘を吐いてはだめ。わかった? じゃなきゃ、本に書いてあったもっとすごいことをしてしまうかもしれないわ」
「わかった! わかったから!」
累は激しく首を振り、勢いよく立ち上がった。
市子が首をかしげる。
「もう大丈夫なの?」
「平気! ほら、さっさと行くよ! これ以上だらだらしていたくない!」
地下から出た二人は、再び書斎の前の廊下に出た。
累は辺りを見回す。壮年の男の血痕は乾き、べっとりと床にこびりついていた。
「……あの変な人形、また出てくるかな」
「どうかしら。出てきたら壊すだけだわ。それでどこに行くの?」
市子の問いに、累は親指の爪を噛む。
獅子の人形の存在、梨沙、空太、ウォーターリリーの友人――この屋敷を探索していれば、いずれそれらの脅威に出くわすことになるだろう。
累はしばらく考えてから、親指を下ろした。
「……さっきと方針は同じ。とりあえず屋敷を見て回ろう。あのウォーターリリーの話だと、屋敷を隅々まで見て回るのは正しい事みたいだし」
「ふぅん……キラを理解する、という話?」
「うん。私の目的はキラを手に入れることだし……まずは屋敷の構造を把握したい」
「良いわ。今度こそ屋敷を見て回りましょう」
市子はどこかうれしそうな顔でうなずき、両手を合わせた。
ひとまず累達は一階を見て回ることにした。先ほど見た図書室を通り過ぎ、いくつかの扉をあけて慎重に内部を確認する。
廊下の突き当たりにあった大きな両開きの扉を開くと、目の前に広い空間が広がった。
「……食堂みたい。広いなぁ」
累は慎重に足を進め、あたりを見回す。目の前には白いクロスを敷いたテーブルがあり、食器や蝋燭の燭台が並んでいる。
他の部屋と同じように、この部屋にも夜真の絵がいくつかあった。
「人魚の肉を食べた人の絵を食堂に置くのか……やっぱり趣味が合わないな」
ある絵を前にして、累は半眼になる。
それは口元を血で濡らしながら肉を喰らう八尾比丘尼の絵だった。生々しい血の色や、てらてらと光る肉の表現を見る限り、夜真の後期の作品のようだ。




