1.
見知った自宅に、見知らぬ世界があった。
母は、累の知らない男を連れていた。累の知らない赤ん坊を抱いていた。
累の知らない顔で笑っていた。
自分だけがいない幸せな風景を前にして、累は「あぁ」とようやく納得した。
どうやら自分は母の特別にはなれなかったらしい、と。
意識こそ失わなかったが、それでも強い虚脱感を覚えた。
このままでは満足に動けない。
そこで累は回復した市子に対し、安全な場所で少し休みたいと頼んだ。
市子はいくらか考えるそぶりを見せた後でうなずき、累を支えて屋敷の中に入った。
そして今、累は市子の言う安全な場所で休んでいる。
「……ここが、安全な場所」
「仕方ないじゃない。わたしだってこの屋敷のこと、よく知らないんだから」
鏡台の前で身なりを整えていた、市子が少しむっとした様子で眉を吊り上げた。
累は布団の上で首だけを動かし、辺りを見回す。
外から見たときよりも中は広い。一面畳張りの空間だ。和箪笥や小さな本棚、花や木々をデザインした衝立などが置かれている。
奥には襖がある。市子の話ではその向こうに小さな風呂や、厠があるらしい。
そして累の背後には、ひしゃげた鉄格子がある。
「……確かに、そうだね。あんた、この座敷牢以外は知らないんだものね」
「そうよ。わたしの部屋だもの」
櫛で髪を整えながら、市子は拗ねたように唇を尖らせる。
累は寝返りを打ち、市子の背中を見た。
「改めて聞くけど……あんた、何者なの?」
「わたしは夜真の娘よ。それ以外の何者でもないし、何者にもなれない」
市子は振り返った。
先ほどウォーターリリーによって切り刻まれたはずのその体。しかし今その白い肌には傷一つなく、セーラー服には血の一滴もなかった。
その紅い瞳をまっすぐに見つめ、累は慎重に問いかけた。
「本当に……人間なの?」
「知らないわ」
市子はふっと視線をそらし、くるくると自分の髪を弄ぶ。
「だって、わたしにも自分が人かどうかわからないから」
「あんたにも……?」
「えぇ。物心ついた時からずっとこの牢の中にいたわ。そして、ずっとこんな体だった」
言いながら市子は鏡台の引き出しを開け、剃刀を取り出した。
そうしてその刃を、自分の手首にあてがう。




