12.
「……行ったの、あの女」
歌声が遠のき、市子がほうっと深く息を漏らす。
ぼうっとウォーターリリーの行った方向を見つめていた累はそこで我に返った。
「市子……市子! だ、大丈夫なの?」
慌てて市子の側にしゃがむと、市子はぐったりと目を閉じる。
「まるでだめよ。傷の治りも悪いし……ひどいわ、あの女」
「あんたがちょっかいだしたからでしょ! なんであんな風に喧嘩売ったのさ!」
「横取りされると思ったんだもの」
「は?」
まるで予想していなかった言葉に、累は思わず頓狂な声を上げた。
市子は片目を開け、疲れたような目で累を見上げる。
「るいを取られてしまうと思ったから」
「え、な、なんで」
「だってあの女、キラだったんでしょう? るいの欲しいものじゃない。るいがあっちについていったら、わたしは一人になってしまうのよ」
市子はまた目を閉じ、深くため息を吐く。
累は両手を落ち着きなく動かし、市子の言葉を自分の中でなんとか噛み砕こうと努力した。
「えっと……なんか、私がいなくなったら寂しい感じ?」
「寂しいというか……ともかく嫌なの。るいに最初にあったのはわたしよ? なのに、あの女に横取りされたら嫌じゃない」
その言葉を聞いた瞬間、累は理解した。
本当に、子供なのだ。生まれてからずっと座敷牢で過ごしていた影響だろう。人間との関わりの持ち方が、市子にはほとんどわかっていない。
だから極端に距離を詰めることもあれば、興味を失ったように素っ気なくもなる。
目の前で市子はわずかに半身を起こし、「痛いわ……」と眉を寄せる。その様も、今はどことなくひどく幼く見えた。
「……その、さ。しばらくはあんたと一緒にいてあげるよ」
「ほんと?」
市子が顔を上げ、紅い瞳を輝かせる。
累はあちこちに視線を泳がせながら、こくこくとうなずいた。
「ほんと。だからさ、あんまり無茶な事しないで欲しいんだ。こっちも迷惑するし……さっきみたいに誰かに喧嘩売るのもナシ」
「わかった、わかったわ。それで、るい――こちらからも少しお願いがあるのだけれど」
「お願い? なんなの?」
湿っぽい音を立てて、市子がゆるゆると白い手を伸ばしてくる。
その紅い瞳の輝きを見た瞬間、累は自分に何が望まれているのかすぐに理解できた。
思わず、累は首筋を押さえた。
「……その、血が欲しいの?」
「そうよ。あの女のせいで乾ききっているの。このままじゃしばらく動けないわ。だからお願いよ。また、貴女の血をちょうだい」
「えっと……私の血の量にも、限界があるんだけど」
立ちくらみを起こしたことを思い出し、累はためらう。
市子はかすかに首を振った。
「そんなふらふらになるほどたくさんもらわないわ。我慢するから」
「……でも」
「良い子にするわ。あなたの言うことも聞く」
市子は小さく呻きつつ、ゆっくりと半身を起こした。震える指先を累の足に伸ばし、細い足首にそっと頬をすり寄せる。
「……おねがいよ、るい」
そうして、すがるように、あるいはねだるように。
市子は累のくるぶしに唇を寄せた。
心臓が跳ね上がる。
反射的に一歩後ずさった。いまだかつてないほどの勢いで脈打つ心臓の鼓動を感じつつ、累はひたすら激しく首を横に振る。
「な、な……」
知らない、知らない。あんな風に誰かに触れられたことなど、ない。
「……るい」
かすれた声に、累ははっと我に返る。
力なく血だまりに伏したまま、市子は虚ろなまなざしでこちらを見つめていた。その虚ろなまなざしが胸を刺し、累は唇を噛む。
「わかった……わかった、から」
「くれるの?」
「うん。――ただ、その」
「……はやく」
言いよどむ累に対し、市子はぐったりと目を閉じて軽く頭を揺らした。
累は市子の側に近づき、地面に膝をつく。
「ほ、ほら、市子」
おずおずと名前を呼ぶと、市子が目を開けた。緩慢な所作で身を起こそうとする市子に手を貸し、その両腕を自分の肩に回させる。
すると、ちょうど市子が累に抱きつくような形になった。
「……っと、と」
ほとんど力の入っていない市子の体は重く、累は支えきれずにぺたりと地面に座り込む。
伽羅の香りが強く漂う。長い黑髪が累の体にかかる。
ぬるい血液がべっとりと累の服を汚していく。
知らない、知らない。累はまた、自分の心臓が落ち着きをなくすのを感じていた。
こんな風に誰かと密着したことも、ない。
「服、どうにかして。このままだと破いてしまうわ」
「ま、待って……待ってったら」
市子の手をなんとか押しとどめ、累は震える指先をブラウスのボタンにかけた。
一瞬、躊躇った。しかし覚悟を決め、一気に二、三個ボタンを外す。
市子が小さく喉を鳴らした。
「本当にいいの?」
「いいよ。だけど、その……あんまり痛くしないで欲しいんだけど」
「……善処するわ」
歯切れの悪い言葉とともに、市子は累の首筋に顔を埋めた。




