4.
「馬鹿なのよ」
吐き捨てるような市子の呟きが耳朶を打った。
手帳から累が顔を上げると、市子は机に手をついて、じっと夜真のノートを見下ろしていた。長い髪がすだれのようにかかり、その表情はほとんど読めない。
「馬鹿で、残酷で、身勝手な男だった」
「……夜真のこと?」
累がたずねても、市子はしばらく答えなかった。
微かに見える唇が迷うように開き、閉じる。累はそれを見つめ、自分の膝に視線を落とした。
「……親なんて大概、馬鹿で残酷で身勝手だと思うけど」
「あら」
市子がわずかに首をかしげ、意外そうな目で累を見る。
累は目を伏せ、小さくため息を吐く。
「少なくとも私は優しくて、なんでも子供のためを思ってくれる親なんて知らない」
「ふふふ、奇遇ね。わたしも同じよ」
「嫌な共通点だなぁ……」
「そう、あなたの親もひどかったの……ねぇ、るい」
不意に目の前に気配を感じた。
はっと累が目を見開くと、間近に市子の紅い瞳があった。あとほんの少し市子が顔を寄せれば、キスしそうなほどの距離だった。
「あなたの親はあなたにどんなひどい事をしたの?」
「それは……」
「掌を杭で打たれたことはある? 焼けた火箸で眼を刺されたことはあるわよね? 鋏で腹を切り開かれたことはある? 飢えた犬をけしかけられた事はないの?」
「い、いや、そんなコトしたら――」
死んでしまう。その一言を、累は思わず呑み込んだ。
脳裏によぎるのは、夜真の描いた残酷な絵画。あの絵で引き裂かれ、殺されていた少女の姿は市子のそれと瓜二つだった。
累は何故、あの絵がいやだったのか。
それはあの絵の少女の瞳がいやだったからだ。どれだけ残虐な目にあっても、奇妙な生命力を宿していたあのほの暗いまなざしが。
ちょうど今目の前に迫るそれと同じ、紅い瞳がいやだった。
あの絵の少女と、市子は本当に同じなのか。
目の前の市子は五体満足で、確かに生きている。けれどもその言葉の数々は異様で、まるであの少女がそのまま語っているかのようで――。
目眩を感じる累の胸に、とんっと市子の指先が触れた。
「この服の下は傷だらけだったりする?」
「ちょ、ちょっとやめてよ。何をする気? さ、触らないで!」
市子の指先がまるで蜘蛛の如く蠢き、先ほど繕ったばかりのブラウスの襟にかかる。
身を引こうとする累に対し、市子はさらに距離を詰めてくる。
その瞳は、まるで沼のように暗く深い。
「痛めつけられたら、痕が残るのよ。わたしと違ってあなたはそうでしょう?」
「あんた、なにを――」
「見たいわ、綺麗な貴女に残る醜い傷痕――どんなものかしら」
吐息混じりの市子の声。同時に累の著ているブラウスのボタンが、一つぷつりと外れた。
血の気が引いた。考えるよりも早く、累は市子の手を掴もうとする。
しかしその寸前で、市子がぴたりと動きを止める。
「な、なに、どうしたの……?」
まるで凍り付いたかのように静止した市子に、累はどこか不安感を覚えた。
市子は顔を上げる。瞬きすらしないその瞳は、じっと中空を見つめているように見えた。
やがてその唇が微かに動き、短い言葉を紡ぎ出す。
「――来る」
直後――きん、と。硝子の鈴を鳴らすような、かすかな音が響いた。
累は息を呑み、マギペンを引き抜く。
「なに……なんか、空気が……」
寒気とは別の感覚に、背筋がぞくぞくと震えた。
きん、きん、と鈴の音は続いている。それは、屋敷全体から響いているように感じられた。
市子がゆらりと首を動かし、窓の外を見つめた。
「あぁ……来たわ」
その時、鈴の音が絶えた。
直後ずんっと空気が震え、累は思わずテーブルに手をついた。
「なにが……」
警戒して辺りを見回す累の目に、部屋の奥にある窓が映った。
その向こうで、閃光が瞬く。




