15.
物心ついた時にはもう父親はいなかった。
母はいつも仕事で疲れていて、累の相手をすることさえ面倒そうだった。
父のことについて母に聞くのは危険だと、累は早い内から学んでいた。一言でも父のことに触れればたちまち母は機嫌を崩し、ひたすら泣きわめく。
しかし九歳になるとこの状況も変り、母は累の事をほとんど無視するようになった。一日中出かける日が増え、そんなとき累はいつも自分で適当なものを食べていた。
やがて、母はずっと出かけるようになった。
ガスが止まっても電気が止まっても水道が止まっても、母は帰ってこなかった。
そのうち、食べる物がなくなった。
やがて厳しい冬が来た。餓死寸前のところで、累はなんとか保護された。
そうして、わけもわからないまま施設に入れられた。
頭に鈍い痛みを感じた。
「……う」
累は呻きつつ、ゆっくりと身を起こした。
軽いめまいは感じるが、吐き気はない。梨沙に殴られた後頭部に触れると、こぶになっているようだが大怪我と言うほどではない。
「あいつら……ッ、よくも……!」
毒づき、累は体を起こす。
そして痛む頭を押さえつつ、辺りをざっと見回した。
「ここは……」
そこはどうやら、廊下のようだった。赤黒い土壁には一定間隔でランプが設えられ、磨き上げられた木の床を照らしていた。
累の後には壁が、前方には廊下が先へと続いている。
「赤匣屋敷……?」
累の声に答える者はいない。
耳を澄ませてみても、なんの物音もしない。人の気配も感じられなかった。
「……どうしようかな」
呟きつつ、累はゆっくりと立ち上がった。
コルセットベストのポケットを一つ一つ確認し、鞄の中身も確認する。幸い、仕事道具は一つも失われていないようだった。
そして累は軽く手足をほぐしつつ、前方を睨む。
廊下の奥はランプが壊れているのか、暗い。こちら側のオレンジ色の明かりもあまり届いておらず、その様子がほとんどわからなかった。
「――行ってみよう」
累はごくりと唾を飲み込むと、慎重に一歩踏み出した。




