(第一章)旅は道連れ
(1)
声の主はひとりの少年だった。
軍人風の近代的な服装と、腰に佩いた大剣がちぐはぐな印象を与える。年のころは十代半ばといったところか。中肉中背、目立って美形ではないがそこそこ整った顔立ち。どこにでもいるような、ごく普通の若者だ。疲れきった様子ではあったが、表情に安堵の色があった。
「よかった、ここにも人がいたんですね。どうか教えてください、ここは一体どういう場所なんですか?このあたりではどう呼ばれているんですか?近くに町はありますか?街道は?僕、道に迷ってしまったみたいで困っていたんです。みんなが心配してるかもしれないし早く帰らないと。どうすれば普通の場所に戻れるんですか、なにか必要な手順があるんでしょうか、それともこの白い空間は果てしなく続いているんですか?」
俺が口を開くより早く、少年はこれだけの長さの言葉をひと息に言ってのけたのだった。それにしても、こいつも迷子なのか。これでは情報を得る望みはなさそうだ。だが、少なくとも同じ境遇の者がいるということは、まったき孤独よりもいくらかましではあった。
「わからないんだ。実は俺も道に迷ったクチでね。しかも気が付いたら真っ白な中にひとりで突っ立っていて、それ以前のことはきれいさっぱり思い出せないときたものさ。もう半日は歩いたとは思うんだが、動くものを見かけたのはお前さんが初めてだ」
「…そうでしたか」
少年はすくなからず落胆したようだった。
「何か掴めるかと思ったのに…ずっとずっと歩きづめに歩いてきたのに…もしかしたら僕たち、このまま…ずっと…」
嘆く声が急速に音量を失い、両膝ががくりと折れる。前のめりに倒れ込もうとした少年の襟を、俺はすんでのところでつかまえた。よく見れば、彼の髪は年のわりに艶がなく、心なしか顔色も青白い。着ているものはよれよれで、ブーツの底もかなりすり減っており、よほど長い期間さまよっていたかに見えた。
ようやく見つけた、たったひとりの仲間に目の前で倒れられて慌てないわけはなかったが、冷静に観察してみると、いわゆる「緊張の糸が切れた」状態であって由々しき事態ではないらしいとわかり、俺は胸をなでおろした。それと同時に盛大なあくびが飛び出して、自分も疲労の極みにあったことを思い出す。
安らかな寝息を立てる少年を地面に下ろしてやり、俺もその傍らに外套を敷いて横になることにした。
目を閉じるやいなや、心地よい睡魔が意識をさらっていった。
そうしてどれだけ眠っていたかは、神のみぞ知るというところだろう。目が覚めても周囲は相変わらず白一色で、明るさにも変化はみられなかった。
体をぐっと伸ばすと、全身の骨がきしんだ。野宿なのだから致し方のないことだ。だがひと眠りしたことで体力と気力がよみがえり、不思議と気分も冷静になっていた。
少年はすでに起き出していた。くつろいでいるような体勢ではあったが、時折四方に警戒の目を向け、片手は油断なく大剣の柄にかかっている。これまでよほど荒んだ環境にいたのだろうか。それとも…
「何か、危険なものでもいるのか」
尋ねてみると、少年は困ったように首をすくめた。
「いいえ。ただ、落ち着かないんです。この場所は開けすぎている。身を隠すところも、盾になるものもない。万一、何かが襲ってきたら…」
なるほど、彼の言い分ももっともであった。「何もない」ことばかりに目がいって、外敵やなんらかの脅威がある可能性を俺は失念していた。まあ、餌も水も見当たらず、襲うべき旅人もめったに通りかからないようなところに猛獣やモンスターが生息しているとも思えないが…
「こんなところにも、獣がいたりするのかな」
「さあ、わからないけど…僕の育ったところでは、しょっちゅう襲ってくるモンスターから身を守るために、たいていの町は厳重に要塞化されていました。市壁の外で野宿する物好きなんてまずいませんよ。モンスターの腹の中で朝を迎えたいというなら別ですけどね」
冗談めかした口調とは裏腹に、剣を握る少年の指が汗ばみ、震えている。いやなことを思い出させてしまったらしいことを詫びて、俺はあることを思い出した。ベルトの物入れから食物の包みをひっぱり出し、開いてみる。堅焼きの菓子のようなものが詰まっているのを、数枚取り出して少年に差し出した。
「そういえば、ろくな食糧もなく歩いてきたんじゃないのかい。何か食べた方がいい」
「…ありがとうございます」
少年が受け取った残りの菓子を、俺も一枚つまみ上げた。大してひもじくもなかったが、食物がもたらす安らぎが欲しかった。端に歯を当てて軽く噛むと、菓子は乾いた音を立てて割れた。
「…あ」
思いがけず広がった濃い旨味、そして鮮烈な香りが全身を駆け抜ける。
同時に、ひとつの光景が眼前に浮かんだ。朝日を映してまばゆい水面、海鳥の声、浜に身を寄せ合うように立ち並ぶ家々、船、歓声…。身をよじるほどの望郷の念がつきあげてくる。あれは、自分のいたところ。帰るべきところ。記憶の底で、誰かが呼んでいる。俺を。俺の名前を…。だのに、それだけが聞き取れない。
「…誰だ」
額に押し当てた拳をそのままに、思わず漏らしたうめき声を聞いて、隣に座っていた少年が振り向いた。ひどく困った表情だ。
「わかりません」
「いやいや、べつにお前さんのことじゃ…えっ?」
「僕、自分のことがわからないんです。どうしてこんなところにいるのか。どこから来たのかは何となく覚えてるけど、自分の名前も忘れてしまって」
「なんだって」
偶然にしては、できすぎている。
「実は、俺もそうなんだ」
(2)
「どういうことなんだろう…」
「何が起きているんだろう…」
先ほどから、俺たちは同じ問いを何度も何度も繰り返していた。お互い今の状況にかんする知識は無いに等しく、また、納得のいく推理を導き出すには至っていないのだが、とにかくこの不安を誰かと分かち合いたかったのだ。
ああでもないこうでもないと、ない知恵をひとしきり絞りあった後で、少年が妙なことを言い出した。俺が無駄と知りつつ地図を広げて、ためつすがめつ眺めていたときだ。
「それ、何て書いてあるんですか」
「ありきたりなことさ。ここが港、城下町、こっちには遺跡があったり」
「僕には読めませんが」
「文字を習っていないのかい?」
「そうじゃなくて、ほら」
少年が広げたのも何かの地図だったが、今度は俺が白旗をあげる番だった。
「さっぱりわからんね。一体なんて書いてあるんだ」
それだけではない。俺の地図と少年の持っている地図とでは、地図であるということ以外には似通った点はなかった。例えば俺の生まれ育ったところはなだらかな地形の離島だが、少年の地図には峻険な山々と見渡す限りの大平原が描かれている。彼の住むという町についても、俺の地図の中にそれらしい記述は見当たらない…そもそもが、平和な、小さな島である。モンスターなど、子供の寝物語になるぐらいがせいぜいなのだ。
さらには、土地の起伏や距離や方角の表し方、地図の材質、使われているインクに至るまで、二枚の地図は違うことずくめだ。どうやら二つの地図は、全く異なった世界、異なった文化の下でつくられたようだった。