仙人郷篇 八
えっ、ひとでなし……?
私は周りをきょろきょろと見回した。
「この人でなしが!!」って最低な人に対して言ったりするけれど、ここでのニュアンスは、そう言う意味じゃ……ないわよねえ、やっぱり。
「しかし、ひとでなしでも道士になれるんだなあ」
辰巳がいらだっているのを分かっているのか分かっていないのか、戌亥さんは楽しそうに続ける。
辰巳はイラついたまま、ブン、と音を立てて剣を振り回した。
剣筋を見切ってか、戌亥さんは1歩下がっただけで簡単に避けてしまう。
「おっと。もう喧嘩はやめだ。それに別にお前を馬鹿にした訳で言ったんじゃない」
「聞いてなかったのか。「殺す」と」
辰巳の剣は、さっきみたいな神経質な動き方はすっかりと抜け、力任せに振るってるように見える。
それを戌亥さんはあっさりと避けて……。
「ちょっと辰巳、やめなさいって。もう勝負ついたんだから」
「お前は黙ってろ! この阿婆擦れが!」
「ちょっと! 今のアンタと私の事は関係ないじゃない!!」
ああん、もう!
何でこんなに石頭なんだろう……!!
私がイラッとした途端。
「あっ、あれ……っ?」
急にくらっと立ちくらみがしてきた。
あれ……、何か目がチカチカしてくる……。
「! おい!」
「おっ?」
何コレ……気持ち悪い……。
私の視界は、真っ黒になった。
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ふと気が付き、鼻をひくひく動かすと、いい匂いがする事に気がついた。
あれっ?
パチッと目を開くと、天井にはピンと布が張られていた。
私は身体を起こすと、ふかふかしたベッドの上だった。何だろう、このマットレス。羽毛じゃないなあ。まるで雲みたい……。私は思わずベッドの不思議な弾力で跳ねて遊んでいて、ふと自分の胸元を見てぎょっとする。
服が制服じゃない……。
誰だあ! 私の服を奪ったのは! って言うか誰だ私の服脱がせたのは……!
着せられていたのは洋服ではもちろんなく、旅館で出されるような浴衣……って言えばいいのかな、これ。浴衣にしては裾がやけに長いし、浴衣よりもつるつるした生地な気がする。
「目が覚めたかい? 高山病だから、服はもっと緩いものの方がいいと思ってね。僕に寝間着に着替えさせたのだけれど」
枕元からテノールの声が響いて、私は振り返った。
振り返った先には湯気が立ちこめていた。
湯気の先にいたのは、昔旅行先で見た京劇の衣装そのまま来ているお兄さんだった。もっとも、京劇で見た衣装はもっと派手だった気がするけれど、この人が着ている服は色合いは浅黄色で帯は白と、地味ではないけれど落ち着いている色合いだった。髪は長くて真っ直ぐで、背中を覆う位に長く、髪の色は銀髪と言うよりも真っ白だった。
そして極めつけは。
尻尾。この人にもふかふかとした尻尾が、出血大サービス持ってけ泥棒九尾もあったのだ。髪の色と同じ、真っ白のふかふかした尻尾が、尻尾が……あの尻尾にはさまれてもふもふできたらいいんだろうなあ……。辰巳に見つかったらまた殴られるんだろうけどさ。
「本当はすぐ下山させた方が体調はよくなるんだけどねえ。気絶している異界の少女を、何も知らないまま下山させる訳にもいかないから」
「あっ、あのう……ベッド……じゃなかった! 寝台……だっけ。寝かせてくれてありがとう……あなたは?」
「ああ。私は辰巳の師をしている、甲だよ」
「きの……えさんですか」
変わった名前だなあ。
そうぼんやりと思う。
てっきり辰巳の師匠って言うから、もっとおじさんとかおじいさんって想像していたのだけど、その人は美形の20代のお兄さんって言った方が自然だった。でも口調はものすごく落ち着いているから、その口調と独特の雰囲気で年齢不詳に思えた。歳聞いて想像より年上でも年下でも信じてしまいそうな位。
私はそうぼんやりと考えつつ、ふかふかのベッドから名残惜しくも脱出した。
湯気の正体は、ことことと煮ている鍋の中身だった。
「いい匂い……」
「茶粥だよ。ほら」
甲さんはそう言って小さな机の上に置いてある器を取ると、1杯盛ってくれた。
いい匂い……。甲さんに渡されたレンゲで一口分すくうと、フウフウと息をかけてから食べる。おいしい~。しみじみした味がする。烏龍茶とほうじ茶の合いの子と言うか、そんな感じ。お粥もちょうどいい塩梅で、お茶を苦くなり過ぎない程度に吸ってておいしい。
「おいしいです」
「それはよかった。お茶は私の道楽だからねえ」
「仙人って霞食べて生きてるのかと思ってましたけど」
「霞は食べられないねえ。気を取り込んで生きてるから、別に食べなくても死なないけど、味覚がない訳じゃないからねえ。おいしいものはおいしいし、好きなものは好きだよ」
「ふうん……」
仙人って私の知っている所のお坊さんみたいなもんだと思ってたけど、案外違うのかもしれないなあ。でも私の世界のお坊さんも普通に肉も食べれば魚も食べるし、バイクや車にだって乗るから、思っているより俗っぽいのかもしれない。
でも……。
ここは大きめのふかふかしたベッドで、柱の上に布が張ってそれが日除けになっている。床には私が今ご飯食べさせてもらっている机に、床には布。
でもその向こう側には、空があった。
空の真っ正面は雲海が広がっていた。本当にここ、山の上なんだ……とそれを目の前で見せられて、今更実感する。
「辰巳はどこですか?」
「流石に女性の寝ているのを見るのはまずいからと、今は外だよ」
「ふうん……」
散々人をアバズレ連呼しておきながら、変な所で律儀なんだから、辰巳は本当によく分からないや。
そう言えばここに来てから初めての食事だったもんなあ。
気付けば、茶粥を盛ってくれた器の中身は空っぽになっていた。