逋逃篇 四
丁と呼ばれた人は、あからさまに場違いで、浮世離れした雰囲気で、この場にたたずんでいた。仙女……って言うのは、こういう人の事なんだろうけど。
私は未だに歯を鳴る音を止められずにいる。それを見て丁は悠然と笑った。
「あら、随分可愛い子を僕にしたのね」
「うるさい……俺達の契約を勝手に改変しようとしたのはお前か……!?」
「失礼しちゃうわね。綻びがあったから少し覗いただけよ」
「うるさい……! 黙れ黙れ黙れ……!!」
辰巳は、今までの鬱憤を一気に晴らすかのように、再び剣をジャキンと音を立てて構えると丁に向かって行った。
「おいおい……」
「……!!」
傍観者を決め込んでいる戌亥さんは、どちらを庇う事もしなかった。子子ちゃんはどちらに対しても脅えた様子を見せて、ただ戌亥さんに隠れてしまった。
剣を向けられているにも関わらず、丁は全く避けない。
私は前に辰巳に斬られた軍人さんを思い出し、思わず目を背けた──。
血が飛ぶ。確かにそう思ったのに。
「乱暴ね。力任せな事をしたら貴重な宝貝が壊れてしまうわ」
「……ちっ」
「え?」
確かに、全く避けていなかったはずなのに、丁は辰巳の剣を受け流していた。彼女はさっきみたいに髪の毛を千切らせる事もなく、ただ悠然とした佇まいを保ったままで、辰巳を見るばかりだった。
辰巳が焦れば焦るほど、丁はただ面白そうに辰巳を眺めているだけだ。そしてさも当然のように丁は辰巳に手を伸ばすと、地面に突き飛ばした。
辰巳はすぐに起き上がろうとするが、それよりも先に丁が動いた。丁は何の抵抗もなく、悠然とした笑みを浮かべたまま辰巳の頭を思いっきり踏み始めたのだ。辰巳の顔が地面に無理矢理押し付けられる。
「本当……お師匠様はどうしてこの野蛮な生き物を仙人郷に招いたのかしらね……人ですらないと言うのに」
「……くっ」
地面から湿った鉄錆のような匂いがしてくる。この人……一体どれだけの力で辰巳を踏みつけてるの。
私は思わず声を張り上げた。
「ちょっと、やめて! 辰巳血が出てるじゃん!」
「あら? 僕が口を開く許可を与えていて? 辰巳は。本当に駄目な子ねえ」
「ぐっ……!」
彼女は散々踏み付けた辰巳の頭を、いとも簡単に蹴り飛ばしたのだ。辰巳の鼻からは血が出ていた。
本当に……この人どうなってるの。
「だから! ……確かに私と辰巳はあなたの言う所の主僕関係はあるかもしれないけど、別にそんなんじゃないから!」
「あら? だとしたらどうしてあなたはこの世界の言語を理解して話せているのかしら?」
「それは……」
そりゃ確かに辰巳が陣に言葉を理解できるようにしてくれるものも書いててくれたらしいけど、何でこの人はそう混ぜっ返すの。私は思わず苛立ちそうになるのを握り拳の中に思いっきり爪を立ててどうにか堪える。
「あなたがどういう人か全然知らないけど、でも辰巳は私を人間扱いしてくれてるもの」
「ええ、そりゃそうでしょうね。ひとでなしは家畜ですもの。でも辰巳も本当に駄目な子ね。家畜に人間と同じ知識を与えるなんて。それとも……寂しかったからそんな事したのかしら……?」
「だから! あなたの理屈を押し付けないでよ!」
「家畜の子も本当に駄目な子ね……」
丁は初めてこちらを見てクスクスと笑い始めた。さっきまで見せていた悠然とした笑みとは違う、何と言うか哄笑って言う奴?
……何で意味もなく馬鹿にされないといけないの。この人に。私が反論を考えている間に、辰巳は起き上がった。何度も咳をして。……鼻が物理的に曲がる位踏まれたんだ。痛くない訳ないのに。
「……てめぇ、好き勝手言うな」
「でも好き勝手してくれたのはあなたもでしょう? あなたの仲間を助けるって名目で私の民を殺した」
「てめぇ!」
「あら? 大人しく牧場で収穫されるのを待っていればよかったのに、逃げ出したのはあちらでしょう? そして逃げざるを得ないようにしたのはあなたじゃなかったかしら? 一つ牧場がなくなっちゃったのは残念だけど、また新しく作ればいいだけだものね。だってひとでなしは探せばまだまだいるんですもの。牧場はいくらでも作れるわ」
「……ふうん」
「……」
戌亥さんは相変わらず傍観していたみたいだけど、少しだけ眉をピクリと動かした。対して子子ちゃんは丁を見て戌亥さんの服にすがっている。
それを分かっているのかいないのか、丁はふいに背中を向ける。
……って、ええ!?
「……どういう了見だ?」
「確認が済んだからお暇するわ」
「……あの、丁、さん」
背中を向けて悠然と歩いて行く彼女に対して、襲い掛かる事も何もできなかった。
ただ私は、あの夢……正確には夢じゃなかったのかもしれないけど……の事を口にしてみる。
「あなた、今は南都国の、后妃って本当なの!?」
「……おい、卯月?」
辰巳が思いっきり私を睨んだが、去って行く丁は何も答えはしなかった。……ひとでなしって括り付けてる人間の言葉に答える気はないって事か。
戌亥さんは心底嫌そうな顔で去って行く丁さんを見つつ、私に声をかけてきた。
「何でそんな事知ってるんだ、卯月は」
「……朝見た夢。そこで私が后妃様って言われてお城の庭にいたの。空に雲海が広がってた。……確か、この山の上の方しかないんだよね、雲海って」
「まあな。海があるのは大国の王族の住む宮廷にしかないし、多少無茶しないとそれを突破して仙人郷にも行けないからなあ」
「うん……そうなんだ」
「あ……の」
「何? 子子ちゃん」
ようやく子子ちゃんは戌亥さんの服の裾から手を離して、ちらちらと丁が立ち去った先を見る。彼女はしゃべっている間に、文字通り忽然と消えてしまった。
仙術、なのかしらとも思う。
あの人はふさふさとした尻尾を九本もなびかせていたけど。正直初めてだ。あれだけ「関わりたくない」って思った人は。
それはさておき、子子ちゃんはおずおずとした様子で、私と辰巳を見ると、鼻を拭っている辰巳の所に小走りで寄って行った。
「あ……の、大丈夫、ですか?」
「……鼻が少し曲がったけど、これ位だったらすぐ治せる」
「あ……の、私……」
「何だ?」
辰巳の言い方で子子ちゃんは肩をビクリと跳ねさせる。ああ、そう言えばこの子は「ひとでなし」って呼ばれてる人達に邑を襲撃されてたから、怖いんだった。……でも、子子ちゃんは怖がっているのをどうにか唇を噛んで飲み込み、辰巳を布きれを取り出して拭き始めた。
「あ……の、私、仙道様から治癒術を習っていますから。辰巳さんの怪我、治してもいいですか?」
「……」
辰巳は少しだけ虚を突かれたような顔をした。
……よかった。少しだけほっとする。この世界はおかしい。人を平気でひとでなしとか家畜とか言って何とも思わないのも、生きるために流され続けるのも。
……確かに、邑一つ、私達で滅茶苦茶にしたけど。でも。人が一人死んで助かって。それでどうして次は自分がそうなるかもしれないって想像、できないの?
「……頼む」
そう答えた辰巳の口元は、確かに笑っていた。




