逋逃篇 一
ひくりと鼻を動かすと、甘い匂いがした。
何だろうと思って鼻を動かしてみても、その匂いが何なのかが分からない。
花……とは何かが違うような気がする。果物? でも果物みたいなジューシーな匂いではないと思う。ならば香水? でも原料が何だか分からないな。
何度その匂いを嗅いでも、その正体が分からなかった。
ただ分かるのは、その匂いは天然モノではなくって、人工的な匂いだと言う事。だからと言ってそれはシャンプーや洗剤みたいに分かりやすい香料の匂いではない。牛乳石鹸みたいに普通に嗅ぎ慣れているからそれが人工的と気付かないような、慣れてしまって判別が付け辛くなってしまってるような、そんな匂いだ。
まあ匂いの解釈はどうでもいいとして。
私は何でこの匂いを嗅いでいるんだろう?
きょろきょろと辺りを見て回ると、そこは野営していた森の中ではないと言う事は分かる。腐葉土の濃い匂いはしないし、もっと土っぽくない清涼な空気が流れているのを感じる。
ふと見るとはらりはらりと何かが舞っているのが分かった。手を伸ばして舞う何かを取ってみると、それは柔らかい花だった。顔を上げてみると、白い花をつけた木が中庭らしいそこで何本も何本も並んでいるのが見えた。
近くには赤い柱に白い建物が見える。その白い建物はやけに大きい上に、赤い柱に刻まれている模様を見ていたら、もしかしてこの建物、相当お金がかかってるんじゃないかって思う。
前に亥に襲われた脂ギッシュなおっさんの住んでいた館も確かにお金はかかっているみたいだったけど、どことなく成金っぽい雰囲気が溢れていた。でもここは違う。何と言うか……香水と同じ。
下品ではなく、自然に自然に人工物を混ぜていると言う、そんな雰囲気。
旅を続けてしばらく立つけど、私が今まで見てきた建物で、こんな綺麗で人工的な場所なんてなかった。まるでここは──。
「后様? 何をなさっておられますか?」
声をかけられ、私は思わずびくりと肩を跳ねさせ、そしてきょろきょろと辺りを見回した。
きさき? 后って……お后様? 王様とか天皇様とか、そんな人のお嫁さん……よね。いくら何でも私の世界と概念違うとか、そんな事ないわよね?
だとしたらここはやっぱり、どこかの国の城って事? って何だそりゃ。何で私はどこかの国の后様にならなきゃいけない訳だ。
思わず焦っている私の気持ちと裏腹に、声が喉から滑り出す。
「いえ、雲海が揺れましたから、何事かしらと思ったのですよ」
「雲海……仙人郷でしょうか?」
「ええ……」
うんかい?
私は声の主と一緒に空を仰ぐ。じっと目を凝らして気付く。
透明な何かが空に広がっていた。最初は風かと思ったけれど、かすかではあるけれど、そこからは確かに潮の匂いがした。
「賊でしょうか? 昨今は万里の長城に不穏な輩が住んでいると聞きますが」
「放置しておきましょう。今は我が国の繁栄の方が先。我が国の繁栄と富を、他国にもお裾分けする方が先ですもの」
「さようですか」
「ええ」
何だろう、この会話は。
私はそのお后様と彼女の付き人らしい女中さんとの会話を聞きながら、首を傾げた。
どうもこの人はどこかの国の后様で、国の繁栄を願ってる……の割には、万里の長城の人達を嫌ってるような気がする。万里の長城は中立地帯……なはずだったわよね? この世界の北と南が戦争した際に停戦に持ち込むために建てられたって言うのは、確か戌亥さんが言ってた事だけれど。
と言うより、これは夢? それとも、何だろう。
私が考え込んでいる間に、女中さんは頭を下げて去って行ってしまった。お后様はただ黙って雲海を眺めていた。
「……ここまで上手く事が運ぶなんて、ね」
……はあ?
何言ってるのこの人は。意味、分かんない。
彼女の言葉を残して、徐々に色彩が拡散していった。
これは、本当に、夢だったの? それとも──。
意識は一気に引き戻された──。
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ひくり、と鼻を動かすと土っぽい匂いがして、思わず「ゲホッ」と咳払いをした。鼻がむず痒くって仕方なく、私は背中を丸めてゲホゲホと咳を繰り返した。
「……何やってんだ、卯月」
呆れたように辰巳に言われ、私はようやく起き上がる。
どこかのアニメみたいに、ちょっとはふかふかにならないかと思って、試しに枯葉をたくさん集めて、その上にマフラーを広げて眠ってみたけど失敗だった。体重で落ち葉がどんどん潰れていって、返って粉っぽくなって寝返りを打つたびに咳き込む羽目になってしまった。
甲さんに借りたベッド以降、私は柔らかいベッドで寝た試しがないんだもの……。
「ゲホ……だってぇ、仕方ないじゃない。たまにはふかふかしたとこで寝たいしー。じゃあ筋斗雲貸して? それ敷いて寝るから」
「あのな、師匠の僕はお前の蒲団じゃ断じてないからな」
「そんな冷たい事言わないでぇ……」
そう辰巳とやりとりをかわしていたら、くすくすと笑い声が聞こえた。
「お二人とも朝から元気ですね」
「あっ、子子ちゃんおはようー」
「おはようございます。今朝食の用意をしていますから。あの……辰巳さんは魚、肉の類は大丈夫でしょうか?」
「あったら食べるが、なくても構わない」
「随分生っぽい話だな、そりゃ」
「うるさい」
戌亥さんにからかわれ、辰巳はぶすっとした顔で一瞥した後そっぽを向いてしまった。子子ちゃんはくすくすと笑いながら、鉄鍋に火をかけて、干し肉と干し飯を香草と水を一緒に入れて煮ていた。
子子ちゃんが来てくれたおかげで、この数日はご飯に対して困る事がない。保存食を美味しく食べるコツを子子ちゃんはよく知っていてくれたから。お肉と香草の程よく混ざったいい匂いがして、自然とお腹が鳴った。
「あのさ、変な夢を見たの」
「何だそれ」
「うん。お城でお后様になって、空を見てる夢。雲海……だっけ? それが揺れてるって言う夢」
「……」
途端に辰巳はぶすくれた表情から一転。やけに厳しい顔になった。えっ? 私が言った話のどこにまずい部分があった? 私がそう口にしようとするより早く、辰巳がいきなり私の額に自分の額を押し当ててきた。
「なっ……! 何すんの!?」
近い近い。思わず押しのけようとするけれど、辰巳が私の肩を掴む力の方が強く、突き飛ばせない。
しかし辰巳は照れる顔もせずに、さっきの険しい顔のままだった。
「……やられた」
「ちょっと……何が」
ようやく辰巳が私を解放したと思ったら、辰巳は考え込むように唇に指を当てた。
それに戌亥さんは我関せずの様子で鍋をすくって器に入れて食べ、子子ちゃんはおろおろした様子で私と辰巳を見比べていた。
「誰かが俺と卯月の主僕契約を読み込もうとしてた」
「えっ、主僕って。私が辰巳に召喚された時の術式に組み込まれてたって言うあれよね……?」
「ああ……」
「ねえ、それ読まれたらどうなるの?」
「……召喚の術式までは読み取られなかったが。下手したら誰かに主僕契約を上書きされてた」
「はあ……!?」
確か辰巳が召喚した時、竜が逆らったりしないようにって召喚の術式に書いてたんだっけ? で、私はこれでこの世界でも読んだりしゃべったりには困らない……。でも、それを全く知らない人に上書きされかけてたって事……!?
って、ちょっと待って。
「あれ? でもこれって仙術だよね? それって仙道じゃなくっても使えるの?」
「使える訳がないから警戒してるんだ」
辰巳は唸るように声を上げる。それに戌亥さんは器をすすりながら口を挟む。
「一応、仙道は基本的に仙人郷から出ないし、仙人郷には強行突破でもしない限りは、入る事すら困難だしなあ」
「えっ、そうなんです? でも戌亥さん達入ってましたよね……?」
「そりゃ、あの時は雲海が揺らいでたからその綻びから入る事ができたんだよ」
「綻び……」
そう言えば夢の中のお后様もそんな事言ってたような。雲海が揺れてるって。
確か私が召喚された時、光がすごくって……。
まさか……。
「あのさ、辰巳。私の夢に出てた人って」
「……そんなまどろっこしい事できる奴に一人心当たりがあるから、対策考えないといけないんだよ」
「それって……」
「……俺の姉弟子だ。あいつなら……悔しいけどあいつならできるんだよ」
俺が血の滲むような努力で覚えた仙術を読み解く事も、俺だと逆立ちしても使えない仙力を大量に駆使する事も。
辰巳は悔しそうな顔で吐き出した。




