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胡蝶篇 十六

 鼻にこびりつくのは、生臭い匂い。

 血って鉄さびの匂いがするとか言うけれど、あれって結局嘘。私はその異臭を嗅ぎながら、おずおずと酉さんの後ろから出た。

 あれだけ大口を叩いていた亥は、身体中によく分からない刺青をつけて、血に塗れて倒れていた。目は宙を見ていて、決して閉じる事がない。

 たくさんの出来事が頭の中を駆け回って、ぐしゃぐしゃになって、どうすればいいのか分からず、私は頭の中を整理する事ができず、言葉が口から出す事ができなかった。


「あ……の」

「……この男は死んだ。祭具用の宝貝も破壊した。ふりだしに戻る、だ」

「…………」


 死んだ。

 まだ私のおばあちゃんもおじいちゃんも健在で、人が死んだって言う経験がなかった。だから、死ぬって言葉を実感する事ができなかったけど、目の前の光景を見ていたら、じわじわとその言葉が身体を侵食していくような気分になる。


「あの……さ。もう、いいよ、ね?」

「何が」


 濡れた剣を、辰巳は大きく振るうと、剣先についた血が地面に散らばった。普段だったら「ひっ」とか叫ぶ場面なのかもしれないけれど、今の私にはさっきまでの出来事がジェットコースターのように流れて、まだ感情が追いついてくれない。

 それでもと、私は頑張って声帯に仕事を促す。


「酉さんに、薬……育毛剤……だっけ、それ。あのさ、それ探してきてあげても、いいよね? だってさ。ほら。助けてくれたし、あの人達どうなったのかは分からないけど」


 中庭には、私が騒ぎを起こして護衛の人達が来るはずにも関わらず、さっきまで宝貝を使って乱闘したせいなのか、こちらに足を踏み入れるような事はしない。

 さっきからちらちらと見ている気配はあるけれど、ここにどくさに紛れてやってくる事はなかった。

 ……皆、自分が一番可愛いんだと思うと、少しだけ「バーカ」と言いたくって仕方がない。

 辰巳は少し目を細めながら、じっと私と酉さんの顔を見た。


「こら辰巳、その辺にしておけ。自分が気に食わないからって当たるのはやめとけ」

「……戌亥」


 今まで静観していた戌亥さんが口出しすると、辰巳は「……ちっ

と舌打ちしてから、剣を鞘に収めた。

 そして私の腕を掴む。その掴む手がやけに強くて、私は思わず顔をしかめる。


「痛いってば」

「うるさい。……いいから、さっさと育毛剤と、あれの妹、連れ戻すぞ」

「……うん」


 辰巳は顔をしかめたまま、また屋敷への道を歩く。私は腕を掴まれたまま、それについていく事にした。


/*/


 屋敷に入ると、あの脂ギッシュなおっさんが震えていた。用心棒らしい人達もまた、何とか武器を構えているものの、及び腰みたい。……あの血塗れ、辰巳が原因じゃないんだと思うけど。そりゃ腕落ちたの、私だって見ちゃったけどさ……。

 思い出したら胃から苦酸っぱいものが込み上げてきたけれど、何とかそれを飲み下して堪えた。

 今はそれどころじゃないから。


「おい」

「ひっ、ひぃっっ……!」


 辰巳が声を掛けた瞬間あのおっさんは仰け反り、用心棒の人達は一斉に武器を構えるが、やっぱり腰が引けている。私は腕を掴まれたまま、辰巳の横顔を怪訝な顔で見る。


「用件は三つ。外の男の妹を解放しろ。あと育毛剤を一つよこせ。あと」

「まっ、まだ、何か用がありますか……?」


 ……敬語になってる。

 でも、まだ用件なんてあるの? 私はまた辰巳の横顔を眺めると、辰巳尾眉間の皺は、亥とやり取りをしていた時以上に深く刻まれている。


「あの死んだ男と女が接触したのを見なかったか?」

「お、女……でございますか?」

「見世物小屋の女じゃない、もっと……えげつない女だ」

「……辰巳、それ誰の事? あのさ、アンタ亥が死んだ原因、心当たりあるの……?」


 私が小声で聞いてみても、辰巳は言葉を返してはくれなかった。おっさんは用心棒の人達に「……あの女と、育毛剤を」とだけ言った後、おっさんは少し考えるように顎をしゃくってから、口を開いた。


「……おっしゃる「えげつない」に当てはまるかは存じませんが……女性が亥に会いに来た事はあります。とても……麗しい方でした」

「尾の数は」

「……九尾、だったかと」

「……」


 辰巳は唇を噛むと、ただでさえ深い皺をますます深くしてしまった。眉のあたりが穴開くんじゃないかって位に。


「辰巳?」

「……あの女」


 それだけしか言ってくれなかった。


/*/


 結局、酉さんと妹さんに育毛剤をあげると、そのまま彼らは自分達の故郷に帰って行った。

 戌亥は「あれは腕立つけど、そのまま帰らせていいのか? もったいない」と言う問いには、辰巳は「金輪際関わりたくない」としか言わなかった。


「……でも、よかったのか? あの腕使えば、多分お前、元の国に帰れたと思うぞ?」


 戌亥さんはそう言いながら、辰巳が太極図を見ながら歩く背中を見つつ、私に聞く。

 私は「うーん……」とうつむいた。


「何だかさ、変だと思ったから、何が変なのか分からないのが気持ち悪いって思ったの」

「変?」

「うまくは言えないんだけど……」


 気持ち悪い。

 それが一番明確な言葉だけど、それ以上の言葉が見つからなかった。あからさまに差別されたりとか、辰巳がやけにカリカリしているとか。一体何がそんなに歪なのかが、喉の奥に刺さった小魚の骨のように突き刺さって、上手く言葉になってはくれない。


「……今は、その気持ち悪いのが何なのか、分かればいいかなって思ってるよ。それが分かってから帰っても遅くはないかなと」

「なるほどなあ……」


 戌亥さんは顎をしゃくると、もう片方の大きな手で私の頭を撫でる。


「まあ、頑張れよ」

「頑張るもんなの?」

「お前さんがどう思ってるのか分からんが、少なくとも南都国じゃあ生易しいもんじゃないからな」


 そう言って戌亥さんが笑った。

 前からはむすっとした辰巳の声が響く。


「おい、次行くぞ」

「はーい、あのさ……見つかりそう?」

「……さっきからずっと止まってたけど、ようやく反応があった。今度はもっと下る」

「よかった! あるんだったらいいんだ!」


 私は手をぽんと叩いて笑った。

 ……不安がない訳じゃない。目の前で人が死んだのに、次にすぐ笑えるなんて、自分でもどうかしているとそう思うけど。

 でも。

 笑え。笑え。笑ってしまえ。

 私が潰れてしまわないように。

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