胡蝶篇 十五
「へっ……俺の宝貝の糸を壊せたからと言って、だからどうした」
「いや、どうともならないな」
亥はいらりとした様子で俺に指を向けてくる。糸が俺に向かって飛んでくるのを、飛んで避ける。亥の足元を確認するが、もう自分の足場を作っても壊されるだけだと判断したのか、もう足場を編んだりはしないようだ。
糸を出す。糸が飛ぶ。その一連の動作はよくよく観察すれば、空を切っている動作が一つ挟まっている事に気付く。俺は大きく足を踏み出すと、一気に間合いを詰める。
今度は戌亥が金鞭を打ち込んでくる。それを亥が糸で絡め取ろうとし……勝負は決した。
「阿婆擦れ! 目を閉じろ」
「えっ!?」
「……」
俺の言葉に反応したのか、卯月が目を閉じるより先に、酉が卯月を背にかばった。……癪だが、今だけは感謝してやる。今、だけだが。
その一瞬後、俺の掲げた剣は大きく打ち下ろされた。
生臭い鮮血が、腕と一緒に撒き散らされた。
「ぐっ…………うわぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
亥の絶叫が中庭を反響する。
卯月の息を飲む音が聞こえたが、今は聞かないふりをした。俺は飛んだ腕を拾うと、袖で隠されていた手首を見やる。そこに彫られていたのは刺青。それもびっしりと術式が書かれていた。術式を読んでみたが、どれも俺が師匠から学んだものよりも古くて、解読ができない。
これは……確定か。俺は黙って腕の術式を斬りつけた。こんなもの、ここに放置しておく事はできない。また血がびしゃりと飛ぶが、それはもう熱を持ってはいなかった。
俺は血の滴る剣先を亥の首筋に突きつけてから、じっと見下ろす。
「命までは取らない……が、一つ聞きたい事がある」
「な……んだ……、と言うか随分じゃねえか、仙道が切傷沙汰なんていいのか?」
「よくはないが、それを計算した上でお前にこんな宝貝よこしたんだろ」
「あの……どこだったの? 宝貝は」
おずおずと言う雰囲気で口を挟む卯月。相変わらず酉によってかばわれているからこちらは見えていないはずだが、血の臭いは嗅ぎ取ったらしい。声はどことなくぎこちない。
「……分からないはずだ。宝貝の正体は刺青だ」
「ええー、何ソレ。刺青なんてのはありなの?」
「霧露乾坤網。一応術式を腕に刻んで術を使えるようにするものだが……」
「ええっと……意味分かんないけど……祭具用の宝貝、何だよねこれは」
「ああ……お前、これをどこで彫った?」
術式は全て理解した上で彫らなければ、例えそれが祭具用の宝貝であっても効果を発揮する事ができない。そしてこいつはただの盗賊で、仙人郷の知識があるようには見えない。そもそも仙人郷の出だったら、育毛剤なんて使う訳がない。
「……言う訳……あると思うか?」
「それさえ言ってもらえたら、命は取らない」
「……」
亥はなくなった腕のあった場所を抑えながら、喉の奥からうめく声を漏らす。そして俺を睨んだかと思うと、口元を嫌らしく釣り上げた。
「いい女だった……俺にこれを彫ったのは」
「女? まさか……」
まさか、と思うが。
でも師匠から宝貝を持ち逃げしたのは……。
そう思考に飛んでいる中。こぷりと言う水音がした。
「ごふ……」
「……!? おい……!!」
亥の首筋から顔までを黒い模様が伝ってくるのが分かる。いや。
俺は亥の外套に手をかけると、それを無理矢理開いた。身体を這いずり回る模様は、術式。その術式に刻まれる術の意味は――死――。
亥は口から赤い泡を立てたかと思うと、目を大きく見開いたまま動かなくなった。
「…………くそ」
あの女……。
霧露乾坤網が破壊されたと同時に発動する術式を、霧露乾坤網の術式を刻むのと同時に刻んでいたと言う訳か。
「あ……の」
「……この男は死んだ。祭具用の宝貝も破壊した。ふりだしに戻る、だ」
「…………」
卯月は、酉の背後から顔を覗かせ、動かなくなった亥をじっと見ていた。
その表情に浮かぶ色は、恐怖と言うよりも困惑だった。




